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第10章 自然の法則

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なぜ、自然には法則性があるのか、物理学は何故自然を説明できるのか、といつた疑問を抱かれたことのある方には、是非一読して頂きたい章です。

冒頭に「自然の秩序は二つの意味にとれる。」とあります。第一は、「この世には、一定の簡略、同じ物の一定の復歸がある」といふこと。この幸運を神の意思と見ることもできようが、その真の源は、「希望或は信念、出來る限り考へようとする意志」にあり、「すべて僕等に由來する」のだとアランは言ひます。

だが判斷といふ仕事がものをいふ限り、判斷とは物の王であり、の子だ。僕は自分がこの世を支へてゐると考へたい。自分が没落する時はこの世の没落する時だと考へたい。選擇によつて、確固と身を持する事、哲學の魂はそこにあるのだ。

「没落する」は、単純に「倒れる」と訳した方が感じが出るかも知れません。

これが理性の王国だとすれば、第二の意味は「悟性の法規」にある。

精神は悟性の法規によつてその自由を縛られるが、又、これによつて力を發揮する。

方向、距離、速度、質量、張力、圧力、数、代数学、幾何学などの「自然の諸法則や諸形式は僕等の道具であり、器械」である。

正しく言へば、法則のない運動は運動とは言へない。もう充分に述べた事だが、運動を知覺するとは、一定不變の運動體といふ考へと連續的に變化する距離といふ考へとによつて變化を整理する事だ。

そして、かう結論されます。

何の束縛も受けない自然は寧ろ創造以前の混沌だと言ふ可きだ。そして目覺める毎に、精神は波の上に浮動する。經驗を管理するのは悟性であり、理性は經驗に先立つものであるからこそ、經驗は兩者を照らし出すのである。

ここで、「精神は波の上に浮動する」といふ部分は、旧約聖書の創世記を踏まへたものだと思ひます。

元始はじめに神天地を創造つくりたまへり 地は定形かたちなく曠空むなしくして黒暗やみわだの面にあり神の霊水の面を覆たりき
(日本聖書協会『舊新約聖書』1頁)

翻訳で気になるところは何ヶ所かあるのですが、今回は省略します。小林訳のまま読んでも、意味は通るでせう。ただ、末尾近くにある次の部分は、明らかに誤植です。

言代へれば、運動の背後にもう一つの運動を、物の背後にもう一つの運動を持つて欲しいと言ふ事だ。

二つ目の「もう一つの運動」は、「もう一つの物」とあるべきところです。


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