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第十章「自然の法則」を受けて、かうした法則を見出す人間の側に眼を向け、「悟性の原理」と「理性の掟」を区別することが大事だと指摘してゐます。悟性の原理とは、
僕等が經驗に於いてどういふものを捕へるにせよ、一定の形式を踏まねばならぬ、その形式が無くては何物も捕へる事が出來ない、さういふ形式の數々に就いての目録
です。例へば
時間と空間の關係に依つて他の一切の物と結ばれてゐない樣な對象も事實も、經驗の裡には絶対に無い。
あるいは、漏れを別にすれば、閉ざされたシステムのなかの変化では、必ず何かが保存される。アランは後者の原理に注目するやう読者に呼びかけて、こんな例で説明してゐます。
例へば僕が手品師の珠が無くなつたと言ふ時、僕は同時に二つの事柄を説明してゐるわけだ、即ち先づ外觀上珠が無くなつたといふ事、次に實は何處かに在るといふ事。
本当に珠が消えたのであれば、錯覚と変はらない。物を不変であると考へるからこそ、変化と言ふものを捉へることができる。
ここでアランは師であるジュウル・ラニョオの言葉を引用します。
「我と一切の物は存在するかしないかどちらかだ」
この訳はかなり簡単化されてゐますが、原文は
Être ou ne pas être, soi et toutes choses, il faut choisir.
です。直訳すれば
あるかないか、自らも全ての物も、選ばねばならない。
といつたところです。最初の「あるかないか」の部分は、ハムレットの有名な台詞と同じ言ひ方で、自分の場合には「生か死か」となり、物の場合には「あるかないか」となる。自らの存在を選び取らなければならないやうに、物のあるなしも、人間が決めなければならないと言ふのです。
悟性の原理に関する別の例として、「純粋理性批判」の中にある因果性の原理が挙げられてゐます。我々は全て物事を続きとして感じ取るが、街を歩くときに家々が順番に見えるやうな「見かけの連續」と、物が燃え、焼け落ちる「眞の連續」を我々が区別してゐるからには「まさに因果の關係に他ならぬ連續の眞理がなくてはならぬといふ事になる。」
別言すれば、連續の法則のない處に眞の連續は無いのである。だから物としての連續とは因果性自體だといふ事になる。
このやうな悟性の原理に対して、
理性の原理となると、一段と抽象的な段階にあると言はねばならぬ、即ち自然の支持が一段と薄弱なもので、精神は言はば健康上必要な規律として、己の好む原理に從ふといふ具合だ。
その例としては、「假説といふものはこれを簡明にする樣に努力しなければならぬとか、最も單純な假説は又最初に試驗を要する假説だとか、既知のものから未知のものを判斷しなければならぬとか」が挙げられてゐます。「この種の掟は經驗より寧ろ意志に由來するもの」であるが、さういふものだと思はれてゐないので、稀にしか守られることがない。
これらは判斷と呼ぶべきもので、人の心の問題だ。
従つてこの價値を感ずる事の出來るのは、情熱の 陥穽 とか言語の輕佻とかを充分に知つた者に限る。言つて了へば、固く己れを持することが精神には必要なのである。狂人にあんまり質問してはならぬ、學者馬なぞには以ての外だ、王威に關する。
最後の部分、「王威に關する」といふのは、数を数へることができるといふ馬なぞに係るのは、王の威厳を損ねるものだといふ意味で、ここの王とは、勿論、精神のことです。
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