ホーム >  『81章』目次 >  第2部目次 >  第11章

第11章 原理

注釈へ

原理の体系は、常に議論に曝される。同じ事を別の言葉で言ふことが出来るからだ。我々はここで、殆ど先回りしないで、議論によるdiscursive知識そのものへと踏み込む。原理とは法則や格言の形をした短い論に他ならず、目に映るものがぼやけて来るときに、精神espritを呼び覚ますのに適してゐる。例へば、的中した予言や軽業師の奇跡、あるいは、ラジウムが一時さうであつたやうな、全てをひつくり返すと思はれるやうな物理的発見を前にしたときのやうに。

ここでも、悟性の原理と理性の法則とを区別しなければならない。カントほどそれを巧くやつた者はなく、彼は両者を体系的に示してもゐる。私はここでそれを要約しようとは思はないが、一番大事なところを言つてみよう。数学は、それ自身で、悟性の原則の体系を成す。即ち、経験においてどのやうなものでもそれに従つて捉へねばらならず、さもないと何もつかめない、さういふ型の目録だ。これは次のやうな一般的な原則として表される。経験においては、空間と時間の関係によつて他の全てのものと結ばれてゐない客体や事実はない、と。

閉ざされた系では、漏れを除けば、何らかの量を一定に保たない変化はない。この最後の原則については、それが変化の定義そのものに他ならない事に注意し給へ。言葉は、考へ idées なしで済ませることが多いので、我々に変化するものの保存を伴はない変化を考へることができると思はせる。そして、確かに見かけではさうで、何も保存されず、何も二度と見出されない。だが、この点にこそ全ての注意を向けるべきだ。さうした見かけ自体が、誰にも知られることはない。

手品師の玉が消えたと言ふとき、私は同時に二つのことを言つてゐる。即ち、見かけでは、それは無くなつたが、実際にはどこかにある。この後の確信が無ければ、前の文は意味を成さない。永遠に消えてしまふ見かけには事欠かない。私はそれを間違ひ、錯覚、思ひ出と呼んで、殆ど気にもかけない。また、手品師の大きな仕事は、私に、玉がさうした幻のひとつではないといふ考へ idée を与へ、維持することだ。ここから出発して、悟性の原則に適した証明とはどんなものかをしつかり掴み給へ。

一方で、全てが見かけのとほりで悟性の働きが要らない自然があり、他方で、客体を持たずその原則を探してゐる悟性があつたとすれば、両者の一致は、神学的な弁証法に求めるしかなかつたであらう。例へば、万物の創造主は我々を欺くことを望まれなかつた、といふ証明をしただらう。その下に何も無いとすれば、全く弱い証明だ。だが、その下には、何があるか。現実 le réel が、悟性の働きにより、見掛けの絶えざる変化の中で客体が存続するといふ条件によつて定義される、そんな宇宙だ。この立方体は、数多くの姿を見せるが、不変なものと考へられ、これらの見かけも、また、方向や距離、動きにより初めて見かけとなる。見かけは、この立方体を据ゑることが出来ないと同様に、それを消し去ることもできない。

客体とは、存続するものだ。そして客体としての変化とは、客体が存続するやうな変化のことだ。我々が選ぶやうに求められてゐるのは、混沌か秩序かではなく、現実 réalité か無 néant かである。無だと言ふのは、我々の中の思ひ出や感情や計画の秩序は、すでに述べたやうに、物の秩序によつてしか支へられないからだ。「あるか無きか、自らも全ての物も、選ばねばならぬ。」さう私のかつての師ラニョは語つてゐた。私はその弟子だとは言へない。私自身が、苦労して細い道を辿り、偶然のやうにして、やうやく彼が私の記憶に残した幾つかの定式を理解するやうになつたからだ。

この証明に光を当てるために、「純粋理性批判」の中にあるかなり洗練された、有名な因果律に関する別の証明をつけ加へたい。その証明とは、これだ。若し自然が我々にいつでも正しい繋がりsuccessions réellesを見せたとすれば、自らにかう問うてみることができよう、この繋がりはいつでも何等かの法則を含んでをり、それに従へば前のものがそれに続くものを決め、他のものにはならないのか、と。だが、現実には、私の知覺では全てが繋がつてをり、例へば、通りの家々は、私が散歩すると、後先に繋がる。

私はそこで、真の繋がりを、同時にあるが順に知られたものと区別してゐるのだから、真の繋がりの正しさといふものがなければならず、それはまさに因果の関係である。そして、私はそれによって、街を歩くときに、見かけの繋がりを、炎、煙、焼け跡といふ真の繋がりと区別するのである。要するに、いつでも繋がりの正しさがあり、それは見かけの繋がりとは別物だ。言ひ方を変へれば、繋がりの法則無しでは、真の繋がりは無い。かうして、客体としての繋がりは、因果関係そのものだ。悟性の原則に適した証明とは、かういふ類のものだ。

理性の原則については、より抽象度の高い水準のものであり、自然によつて支へられる度合いが小さく、精神は、健康のための決まりのやうに、好んでそれに従ふ。例へば、それまで知られてゐた秩序に反する出来事で、一度しか起きないものは、物の気まぐれではなく、想像やさわぐ心の所為にすべきである。あるいは、仮説は節約するよう努力すべきである。最も単純な仮定が最初に試すべきものである、知られているものにより知られていないものを判断すべきである、そして、要するに、外的な驚異を追ひかけて、それを一つでも見逃すまいとするのではなく、さわぐ心、即ち、心を揺らすやうな意見を避けるべきである。

かうした教ヘは、経験よりも意思に由来するものであり、人はそれをさういふものだとは思はないので、使はれることが少な過ぎる。それは正しい意味で判断であり、人の道に係るものである。さわぐ心と安易な言葉の罠を十分に知らないと、その価値を感じることはできない。要するに、精神は抵抗し拒否せねばならない。狂者にあまりものを尋ねず、数を数える馬は全く相手にしない、それは君主の尊厳に係るのだ。


第10章 < 第11章 > 第12章

ホーム >  『81章』目次 >  第2部目次 >  第11章

Copyright (C) 2005-2006 吉原順之