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第9章 目的

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第八章では原因を扱ひました。アランは、原因に第一原因と第二原因とがあつて、

この二種の原因には、主體と客體、或はお望みならば精神と物質との樣な區別がある。

と言つてゐました。目的の場合にも、究極の目的と当面の二次的な目的とを分けて考へることはできるでせうが、その間に主体と客体のやうな差を見るのは無理な気がします。目的といふからには、必ず何らかの主体、精神の関与が前提となるからです。

さて、この章は次の文章で始まります。

究極因とは君主に仕へた處女であり、不姙婦だ、といふベエコンの公式は周知である。

ここで「究極因」と訳された言葉は causes finales です。辞書には<そのために物が作られた目的>とあつて、「究極目的」とした方が良いかも知れません。ただ、原因と目的とが似た文脈で使はれるのは、「なぜ」といふ問への答に、「かういふ原因で」と「かういふ目的で」の双方があり得るやうに、日本語でも同じです。

ベーコンは、「何のために」といふ問を追ひ詰めても、何も得るものがないと言ひたかつたのでせうが、アランは、それも使ひ様で、

言葉といふものに信頼すると忽ち空疎な抽象的なものになつて了ふ觀念が、物に觸れて生命と意味とを取り戻し、僕等に力を貸して、何物かを掴まへさせるに至る

のだと書いてゐます。菩提樹の種の小さな羽や鳥の翼の例を挙げながら

幾何學や其他の諸形式に順じて建直した知覺を、決して忘れない樣にしてゐるなら、神學上の觀念も、少くとも指導觀念として別に惡い事はない。

とアランは言ふのです。

この樣に、物に於いて、目的を原因に結び付けるものは、まさしく效用の考へだ、假定された效用とは目的であり、説明された效用とは原因或は法則、また、お望みなら説明された物自體とも呼ばるべきものだからだ。

最後の段落には、哲学についてのアランの考へが端的に示されてゐます。

考へるといふ職の根底には、誘惑と外觀とに對する爭鬪がある。結局、全ての哲學がそこで定まる。問題は、夢の樣に覆ひかぶさる奇怪な自然から逃れて、この幻覺を征服するにある、僞物の神々を追ひ拂ふ、即ち、正確な調査によつて、この途轍もない自然をいよいよ單純なものにしようとする事にある。嚴しいデカルトの術がこゝにある。

宣長に言はせると、こちたき漢意の典型かもしれませんね。なほ、引用中の「職」といふ言葉は<仕事>と訳した方が感じが出るのではないでせうか。

翻訳について、気づいた点を幾つか書いておきます。まづ、第一段落の、上に引用した部分の続きで、

何物かを掴まへさせるに至るといふ、あらゆる觀念が受ける試煉を、如實に語つてゐる。

とあるのですが、「試煉」と訳された épreuve は、試金石といふ意味にとつて、何物かを掴まへるのに役立つかどうかで、観念の良し悪しが決まるのだと読む方が、著者の気持ちに近いのではないでせうか。

第二段落の始めに、「良く知らない力學の勉強をしてゐる際など」とあるのは、<知らない機械仕掛を調べる時には>と訳すべきでせう。

第三段落の始め、

又、いろいろな窮極因が一緒になつて、自然現象の再建に際して、指導の役割を勤めてゐる樣な場合

とありますが、これはどうやら réussissent (成功する)を réunissent (一緒になる)と読み違へたので、

最終目的が自然現象の再構築においても方向を示すのに成功する場合

といふのが元の意味だと思ひます。


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