原因にも第一原因と第二原因とがあつて、そこには主体と客体、精神と物質のやうな区別があるとアランは言ひます。デカルトの勁い考へに従つて、「スウプを待つてゐる犬」は勿論のこと、
酒に醉つた人、或は怒りで逆上して怒鳴り散らしてゐる人間の中にも或る思想があると思ひたがる
のは、情念の所為であると断定します。
かうして「物を物自體に投げ返す」こと、「生きている肉體といふ物にも、延長即ち全く外的な關係だけを見る樣に」すること、それが「眞の知識の鍵」であり、「眞の自由の鍵」だといふのです。徹底した二元論で、スピノザの考へ方とは、かなり違ふやうです。
小林訳で気になつたところを幾つか書いておきます。まづ、第四段落の始めに
こゝにもう一つ、法則の原因といふものをはつきりさせて置かねばならぬ
といふ文がありますが、これは
原因を法則と区別しなければならない
といふのが原文の意味だと思ひます。
同じ段落の半ばあたりにある
例へば、過飽和に達した溶液の中の結晶の細片の樣なのがそれで、この場合、溶解も亦結構原因だ。
といふ文の「溶解」は、<(その)溶液>が正しいでせう。
この段落の後ろの方は分かり難い文章かもしれませんが、「誘導された進化變遷に關する法則」といふのは、<方向付けされた、つまり向きを持つた変化の法則>といふことで、熱力学第二法則により、エントロピーが増大するやうな不可逆反応を指してゐます。
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