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第6章 デカルト讃

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デカルトはアランが最も尊敬した哲学者で、この『八十一章』でも、章名に名前が出てくる唯一の人物です。なほ、デカルトについては小林秀雄も『常識について』(昭和三十九年)の中で、かなり詳しく述べてゐます。デカルト哲学入門としては良い読み物ではないでせうか。

最近、このMLでもスピノザが話題になるので、アランが書いたスピノザについての文章を読んでみたのですが、大変おもしろかつた。相当にラディカルな思想家だといふ印象を受けました。そのスピノザをアランは、盲人のために点字で出版した哲学概論の中で、かう評してゐます。

スピノザは私達のプラトンのアリストテレスだ。デカルトに対する最も強い批判が『エチカ』のあちこちにある。しかしスピノザは、デカルトに従ひ、それを言はば型と体系に入れるのだ。だが、また、全ては「客体」と「必然」の中で失はれる。
(Abrégés pour les Aveugles)

さて、この章の冒頭に

デカルトを理解する爲に僕等に不足してゐるものは、常に知慧である。

とあります。知慧と訳された言葉は intelligenceで、知性といふ方が近いかも知れません。

第二段落の動物機械論に関する部分は、小林訳ではデカルトと動物機械論者とが違ふ意見を持つてゐるやうに解されてゐますが、動物機械論は、デカルトの主張です。従って、

讀者が兎や角考へを廻らすまでもなく、これで事は片付く。動物機械論者ではさつぱり片付きはしない。他のいろいろな事について常識を容易に滿足させてゐると同じ理由から、動物機械論者は常識の滿足してゐるところに反抗してゐるのだ。何故かと言ふと、動物機械論者は、常に曖昧な瑣細ささいな分別に止まつて、デカルトはこの場合、やはり同じ事を一段と聲を大きくして繰り返してゐるに過ぎない、といふ事を理解しないからだ。

といふ文章は、以下のやうに読むべき所でせう。

だが、これら全てを、読者はあまり考へることもなく受け入れ、他方で、動物機械論は全く受け入れられない。常識が、他のものには簡単に満足するのと同じ理由で、そこでは抵抗する。なぜなら、議論が尽きない細かな理由にこだはつて、著者がここでも同じ事を繰り返してをり、ただより強く言つてゐるのだといふことに気づかないからだ。

ここで注意すべきなのは、動物機械論と人間機械論は違ふという点です。勿論、人間も動物ですから、人間の動物的な部分は機械のやうに動く。デカルトは、怒りとか欲、憎悪といつた、普通は心の働きと考へられてゐる人間の情念までも物の世界、すなはち動物の世界に追ひやつて、精神の持つ判断、認識といつた力を明確な形で打ち立てた。アランは、かう見てゐるのです。だが、彼を理解するには知性が必要だ。

デカルトの肖像が、あまり期待もせずに人々の理解を待つてから、やがて三世紀になる。

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