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第10章 心理學

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この章でアランは先づ心理学といふのが弁証法的な学問であると言つてゐます。弁証法といふ日本語は dialectique といふ仏語とは随分語感が違ふと思はれます。仏語の辞書 Petit Robert では、その意味として次のやうなものが並んでゐます。

  1. 議論の中で証明し、反論し、納得させるために用ゐられる手段の総体。
  2. <哲学的>プラトンでは、質問と答により議論する術。  
    • 中世では、形式的な論理学。
    • カントでは、見かけの論理学。
  3. <現代的>ヘーゲルによる、矛盾するもの(テーゼとアンチテーゼ)が不可分であることを認識し、それを上位の範疇(ジンテーゼ)で統合する考への進め方。
    • 現実の動きで、ヘーゲルの考へと同様に絶え間無く変化するもの。

ここでのアランの用法は、1.の一般的な意味に近く「言葉が大きな役割を果たしてゐる議論」あるいはやや否定的に「現実を離れた言葉の上だけの議論」といふ意味で使はれてゐるやうです。

第二段落では、僕 Je といふ短い言葉があらゆる思想の主語であり、「僕の身體や行爲を見事に表現する」のだが、

一と度これを自分に對立させたり、自分から區別したり、言はば自分で自分の葬式に出掛ける樣な事をすると、忽ち辯證法の源が姿を現す。

と言つてゐます。

第三段落は、この言葉の上での自己同一性を支へてゐるのは「道徳上の判斷」だと述べて、さらに、

物が缺ければ思想は支柱を失ふものだ。

といふ大事な考へを提示してゐます。自己を知るといふのも同じで、「言葉しか見付からない自己の裡に引込」むのではなく、

考へは、考への働きの裡に、而も物を支持するものとして捕へねばならぬ

と言ひます。

学生の頃に読んだ森鴎外の「妄想」で引かれてゐるゲーテの言葉を思ひ出しました。曰く

いかにして人は己を知ることを得べきか。省察を以てしては決してあたわざらん。されど行為を以てしては或はくせむ。汝の義務を果さんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。汝の義務とは何ぞ。日の要求なり。
(新潮文庫から引用してゐるので「現代かな使い」です。)

ともかく、

僕等に最も興味のある問題が最も單純な問題といふわけには行かぬ。殘念な事だが致し方ない。このが變らぬものとしても、己れを持するといふ仕事は生易しい仕事ではないのだ。

第四段落では、「自己とは意識の諸状態の集合に他ならぬ」といふヒュウムの考へを批判してゐます。アランの基本的な考へ方が現れてゐて、私には一番おもしろいところですが、また、一番難しいところでもあります。

ラニョオが神の存在を否定した話は、神が存在しないといふ点に重点があるのではなく、「存在するとは他物とともに經驗の織目に捕へられる事に他ならぬ」のだから、神はそれを超えてをり、「僕の中にあつて、僕の周圍を、世界の果てまでも考へるもの」も、それと同様だといふことが言ひたいのではないでせうか。

この段落の最後に

思想は自己の内にも外にもない。自己の外といふものも亦考へられるし、内外を一緒にしたものも常に考へられるからだ。

とあります。後半は

自己の外についても考へられてゐるのだし、内外はいつでも一緒に考へられてゐるからだ。

と訳す方が分かり易いかもしれません。


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