アランは前の章で言葉の戯れが空疎な議論を生むことを指摘してゐました。この章は、その例として「凡ての物にはその原因がある」といふ議論、「自身原因を持つてゐない即ち最初の原因」があるといふ議論、そしてライプニッツの単子の議論の三つを取り上げてゐます。
最初の例は、原因を持たない物があるとすればそれは無から生じたことになるが無は何も生まないから、さうした物はあり得ない、といふ議論です。この例はヒュウムの本から引かれたもので、ヒュウム自身の反論がついてゐます。曰く「原因を持たぬ物が無から生じたと假定する事は、凡ての物は他の物から生ずると假定する事」であり、それが正に証明すべき問題ではないか。
第二の例は、「事物の或る状態は、これに先行する事物の他の状態が無ければ存在し得ない。その先行する事物の状態に先行するもう一つの状態がといふ風に果てがない。」が、現実には事物の状態が存在している以上、果てはある筈だ、つまり第一原因が必要だといふのです。
これについてアランは、三つの指摘をしてゐます。詳しくは本文を見て頂くとして、第二の指摘の中に
天體系では重力の働く凡ての物體は、限りなく近接する他の物體に依存してゐる
といふ文章がありますが、
重力を持つ物体の状態はどれも限りなく近接する他の状態に依存する
といふのが正しい訳でせう。
同じ個所に
若し凡ての原因を數へ上げ樣としたら到底數へ切れまい。數へ切れない以上、現在の無限の論理的不可能は消滅するわけだ。
とありますが、前半は
私が全ての原因を語るとき、ある数の原因を意味してはゐないのだ。そして、もはや数がないとなれば
といふのが直訳です。
第三の例は
合成された物は、それを合成する物が無ければ存在しない。合成する物自體が合成された物なら、その先その先と果てが無いわけだ。併し若し合成された物が存在するなら、即時にそれを合成する物が存在する筈だ。故に合成する物は單一な物だ、絶対的に單一な物でなければならぬ。これを精神といふ。
といふものです。
これに対するアランの指摘は
事物は、若し僕等が論理的であらうとするなら、斷じて合成物でも單一物でもあり得ない。
と訳されてゐますが、
論理的であらうとすれば物は合成物でも単一物でもない可能性があり得る。
と訳す方が原文の感じに近いと思はれます。
また、その後に
言語が自然と同程度に豐富にならぬ限り、これは證明する事も納得する事も出來ない。
とありますが、
言葉が自然ほど豊かであることは証明されてゐないし、ありさうもない。
といふのが原文の意味でせう。
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