この章でアランは、一見論理的だが抽象的で事実に基づかない議論が何故横行するのかを分析してゐます。
最初の段落は、以下のやうに纏める事ができるでせう。数学や哲学の例に見るやうに、思索の力が経験を超えることは確かである。ただ
論理的外觀が無暗に人に尊敬されるといふには、何か其處にもつと理由がなくてはならぬ。
第二段落では、その理由として、素朴な経験に基づく世界での言葉の持つ力、揃つた声の響きが示す深い意味、「ある意味では期待してゐる而も思ひ掛けない感を與へる返答」のやうな機転を利かせた言ひまはしの役割などが挙げられます。プラトンが描いたソフィスト達の活躍する世界です。
メフィストフィレスの言葉を引きながら、第三段落では
あらゆる魔術は一種の辯證法だ。だからあらゆる辯證法が魔術だとしても驚くには當らないのである。
と述べられます。言葉の遊戲に過ぎない議論は多いのだが、
議論する事は屢々韻を 踐 む樣なものだ。
かうした「最も豐富な感動的な不明瞭な言語を呼集めて巧に行ふ推論」が形而上學や神學だとされてゐます。次の章では、その例が検討されます。
細かくなりますが翻訳の問題を幾つか。まづ、第一段落の「不可測と言はれる大きさ」ですが、incommensurables といふのは無理数を言ふのではないかと思ひます。同じ段落に「數學では飽き足らず」といふ部分がありますが、原文ではそれらしいところが見当たりません。
第二段落の「模倣や相稱」は imitations et symétries の訳ですが、例へば漢文の対句のやうな修辞法がそれに当たるのではないかと思ひました。
同じ段落の最後の
最も嚴格な文體も、奇襲によつて人を動かす何物かを藏してゐるものだ。
は、
最も厳しい文体にも、その(上記の修辞的要素の)幾分かが残つてをり、予期せぬ分だけ効果も大きい。
といふのが正確でせう。
第三段落の「いろいろ議論があつて結論に達するのだが」は、<かうした言ひ方で結論を導いた議論は一つではないが>と読むのが良いと思ひます。
同じ段落に「反坐の刑」とあります。反坐は広辞苑によれば「誣告人に、逆に自分を陥れようとした罪の制裁を受けさせること」ですが、原文の talion は「眼には眼を」の類を指します。ただ、私が学生の頃から使つてゐる(つまり30年前の)「スタンダード佛和辭典」では loi du talion が反坐法と訳されてゐるので、反坐といふ訳も間違ひではないのかも知れません。
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