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第8章 虚ろな弁証

注釈へ

数学はいつでも人間の精神に大きな希望を抱かせた。推論により経験を追ひぬき、とても確実な数の関係を、無理数と呼ばれる量の間のやうに経験では決して確かめられないものまで見出せることが明らかなので、考へる力が感覚の感じ取るものを遥かに超えて広がつてゐることもまた明らかであつた。それに加へて真の哲学は、常に強い理由により我々に感覚への警戒を呼び起こし、その決定を何か別の判断者に委ねた。またすでに見たやうに物質はいつでも抽象的な機械論に還元され、自らを判断する能力も理解する力もなかつた。経験の中では誰も出会つたことのない正義、率直、友情についての倫理的な探究も、いつでも結果を気にする諺の知恵よりも何かもつと尊ぶべき確かなものを含んでゐるやうに思はれた。これらが抽象的な推論を初めから馬鹿にすべきではないといふ幾つかの理由である。だが論理的な見掛けにはそれ以上の何かがあり、過度に愛されることとなつてゐる。

さわぐ心の研究には立ち入らないでも、素朴な naïve 経験が洗練された purifiée 経験とは似ても似付かないものであることは理解できる。夢は心を打つ思ひ出を残し、語ることでそれがさらに補はれて、我々に身体が全く係らない旅や、蘇りや、幻影を示す。さわぐ心がしばしば的中したと思ふ予言は数へないとしても。夢は、欲望や祈りが道具や簡単な機械よりも大きな力を持つ、秩序のない世界といふ考へを人間に与へたに違ひなく、実際に与へてきた。そして説得や単なる肯定さへも気分や空想に大きく響き、また、運命についての予言や言葉の一致と対立がいつでも心を動かすのだから。音の響き自体が、しつかりと跡を残し、我々の期待に応へ疑ひを断つやうに見える。律動と歌は、共にする場合は特に、言葉の普通の意味するところよりもずつと深く我々を呼び覚ますことも言つて置かう。だから詩や饒舌があれほど証明を支へることになる。

だが言葉の遊びや予想外だがある意味では待たれてゐる答へ、そして機知や精彩と呼ばれるものは、最も厳密な議論においても大きな位置を占め、それは人が認めたがらない程だ。論理のひらめきや垣間見られた形、模倣と対称、全ての宗教の最初の飾り、全ての神学の最初の素描については何と言はうか。判断とさわぐ心は全てここで一つになり、このより精緻な音楽に一つの意味を与へようと待ち構へてゐる。プラトンの中のソフィストで、それがどのやうなものかがかなり分かる。そして最も厳しい文体にもその幾分かが残つてをり、予期せぬ分だけ効果も大きい。さう、形が裸になるだけこの言葉の関係は心を動かすのだ。

人の似顔絵は彼に似てゐる。似顔絵を打てば、似てゐる事で、人間を傷つける。王の剣は剣の女王だ。ゲーテがメフィストフィレスにかう言はせたのは偶然ではない。「葡萄酒は葡萄から来る、葡萄は葡萄の樹から来る、葡萄の樹は樹だ。樹は葡萄酒を出せる。」これは全ての呪(まじな)ひの主題だ。慣習で信じるのはむしろ動物的だ。人間的なのは語られた証明である。未開人の不思議な迷信はどれも、詳しく調査されてゐて、早まつた推論よりも抽象的で演繹的な神学に似てゐる。全ての魔術は弁証法だ。だから全ての弁証法が依然として魔術であるとしても驚いてはならない。

昨日私は永遠の罰についての古い議論を読んだ。曰く、神は無限であり、罪もまた無限だ、従つて罰も無限でなければならない。この言ひ方で終つた議論は一つではない。だがこれは言葉の遊びに過ぎぬ。かういふ言ひ方ができるとして、この考へを辿ると我々の罪を購ふためには神の苦しみが必要だと分かる。これは幼い等式だ。この考への価値如何はともかく、滑稽な証明である。だがかうした証明が人の気に入るのだ。同罪の刑の根拠は一つではなかつたが、まづは罪と罰が似てゐるのが、そして音の繰り返しが喜ばれた。推論するとはしばしば韻を踏むことのやうだ。

このことから、より上手に進めた議論の力が測り知られる。形而上学や神学といふ名の下に最も豊かで心を動かし曖昧な言葉を選んで並べるものだ。これに対しては純粋論理の正確な研究や、数学者の証明についての注意深い考察が最善の予防策である。なぜならすこし込み入つた議論の弱点を見つけるには、まづ慌ててはいけないから。むしろ全ての議論に反対する合理的な偏見を持たう。だがそのいくつかを調べてみて原理を確かめるのは無駄ではあるまい。


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