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第10章 心理学について

注釈へ

この上手く定義されてゐない科学についてはここで扱ふべきだ。そのどの部分を取つても弁証法的なのだから。その一つで、魂と死後の生を扱ふものは、明らかに形而上学的だ。だが、別の、経験に基づいて我々の考へや気持を扱ふものも、考へられてゐるよりずつと強く言葉に支配されてゐる。

私 Je といふ言葉は、表に出てゐても隠れてゐても、我々の考への主語である。現在、過去、あるいは未来について何を描いたり定式化したりしようとも、それは私が形作る、あるいは持つてゐる、私についての考へであり、同時に私が感じてゐる気持である。この短い言葉は全ての私の考への中で不変だ。私が変はり、老い、諦め、改宗する、これらの命題の主語は常に同じ言葉である。かうして私はもはや私ではない、私は別人だ、といふ命題は自らを崩す。私は二人だといふ空想的な命題も同様である。それは全て不変の私 Je なのだから。この自然な論理に拠れば、私は存在しないといふ命題はあり得ない。かくして私は、言葉の力により、不死身になる。これが魂は死なないことを証明する議論の底にあるものだ。これが経験だと主張されるものの原文であり、生きてゐる間いつでも我々に同じ私 Je を見出させるものだ。この様にこの短い言葉は、私の身体と動きをうまく指し示し、他の人間やその他全てのものとはつきり区別するのだが、これをそれ自身に向き合はせたり、それ自身から引き離したり、自らの葬儀に連れて行かうとすると、忽ち弁証法の源となる。

この人格の永遠といふ考へは、全ての変化や不幸を超えた自己同一性と同様に、実を言ふと心の世界での d'ordre moral ひとつの判断なのであり、多分一番美しいものだ。この自己同一性の純粋な形が、我々の考へを考へにしてゐるものだ、と言ひ添へよう。何かに気付く reconnaître と自分にも気付かずにはゐられないし、それが感じられた動きでしかない時でも、何かを維持するには自らも維持することが欠かせないのだから。だがこの指摘によりこの私 Je は、全ての考への主語なのだが、いつでも一つである悟性の別名であり、全ての見かけを唯一の経験に結び付けてゐるのだといふことが見えて来る。調べはそこで終はる。私が二つの別々の世界を感じると仮定するのは、私が二人だと仮定することでもあり、これは不条理で全てがお終ひになるのだから。

ただ、言葉に注意しない者は、ある触れることのできない物、ひとつの、持続する、動かすことのできない、要するに所謂実質 substance であるところの物を前にしてゐるのだと思ひ込む。そこから、私は自分のことしか覚えてゐない、のやうな言ひ方が出て来る。これは単なる恒等式だ。私は覚えてゐると言へば同じ事を言つたことになるのだから。ここでは言葉が働き過ぎてゐる。私達は省察がうまく行くと過信してゐる。客体が欠けてをり、考へは支へを失つてゐる。省察の一つの条件は、考へが仕事の中で客体を支へてゐるところを探さなければならないといふことだ。だがこの条件は深く秘められてゐる。最初の動きは自らの内に引きこもることで、そこには言葉しか見付からない。さういふ訳で私は自らを知ることについての章を設けなかつた。この本全体がその役に立つのだ、ただ回り道で、塹壕を進むやうに、あるいは波立つ水に自らの姿を見るやうに一瞬の間だけ。我々が一番関心を持つ問題は一番簡単とは行かない。それは残念だとしか言へない。この変はることのない私 Je があるにしても、自らでゐ続けるのは軽い仕事ではない。

ここで特に注意すべきなのは、実験的と言はれる心理学や生理学的心理学でさへも、全てをこの頼りない骨組に依存してゐることだ。多分これほど為になる誤解もないだらう。「自分は意識状態の集まりに過ぎない。」このヒューム言ひ方は、破壊にはあれほど力強いのに再建するとなると途端にかくも幼稚になる、この精神の限界を見せてゐる。意識状態が物のやうに散歩すると言つたりしないだらうか。この見せかけの経験主義は、細部に至るまで弁証法的である。感覚 sensation、心像、思ひ出を石、包丁、果物のやうに言ふ。それら全てからしつかりと縫ひ合はされた魂を組上げて見せる。だが、上手くあるいは拙く縫ひ合はせた魂といふやうなものは存在しない。

ラニョは、深遠で無名だつたが、熱心に神は存在しないことを証明しようとした。存在するとは他の物と一緒に経験の網目に捉へられることなのだから、と彼は言つてゐた。そして私の中であるいはその廻りで、世界が広がるだけ遠くまで考へてゐるものについて、何と言はうか。それは掴むが、決して掴まれはしない。ともかく巧みな機械仕掛は蟻のやうに動けるとしても、考へはしない。この機械の部分が知覚、記憶、感情であるとは尚更言へない。全ての知覚は世界と同じ大きさを持ち、どこにあつても感情であり、記憶であり、予測である。考へは私の外にないのと同様に私の中にあるのでもない。私の外側についても考へられてゐるのだから。そして両者はいつでも一緒に考へられてゐるのだから。

これを読んだ後では、諸君は、我々の内側に長いリボンのやうに実質としての自分を組立て直す言葉の遊びを容赦無く判断するだらう。記憶のための棚、想像力のためには別の棚、視力にはもう一つの等々を探し、それによつて曖昧な経験を解釈する魂の生理学は、更に厳しく判断するだらう。より複雑さの少ない科学の例に基づき、全ての困難は事実を固める点にあることが、十分確かめられてゐる。考へる脳は、考へる魂とその心像に模(かたど)つたものだ。この立派な仕事は、もし交霊者達がもつと巧みであつたならば、我々を旅する魂へと連れて行くだらう。だがこの幾何学を持たない唯物主義は放つておかう。


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