この章でアランは、運動の合成や分解の例を挙げながら、精神が自然をつかまへる様を描いてゐます。まづ投げ上げた石が落ちて来るのを、投げ上げた速度で登りつづける動きと、重力により加速しながら落ちる動きの合成として記述します。
次に平面に斜めにぶつかる球の入射角と反射角が等しいことを、平面に垂直な運動と平行な運動に分解し、衝突時のそれぞれの動きを考へてから合成することで示します。最後に仕事の例で、投入する仕事と出て来る仕事が同じだといふことから、力と距離が反比例することを導いてみせます。
どれも良く知られた例ですがアランが言ひたいのは、第二の例のところで述べられてゐるやうに、大事なのはある觀念をしつかりと保持することであり、さうした厳格な判断こそが精神が自ら全てを支配する高度な分析への道なのだ、といふことなのでせう。
そして、第一段落の終はりの部分では、かうした運動の分解や合成は経験から得られるものではなく、逆に外観から経験や客体の状態へと移らねばならないことが分かる、とも言つてゐます。この部分、小林訳では
かういふ解剖によつて、運動の構成原理を明かすものは、經驗ではない、それどころか、經驗や物の状態にある外觀を無視しなければならぬ事が理解出來る。
となつてゐますが、上のやうに読むほうが良いと思ひます。
また第三段落に「腕力」と訳されてゐるのは force vive といふ語で、手元の辞書では物体の質量に速度の二乗を掛けたものだとあります。かういふ概念は日本で習ふ物理学には出てこないと思ひますが、運動エネルギーの兄弟といつたところでせうか。
この部分、小林訳では
かういふ諸例は、驚くべき推理の機械、代數學に僕等を導く。
といふ訳で、次章は「算術と代數學」です。
Copyright (C) 2005-2006 吉原順之