アランはこの章で習慣は単なる機械的な繰り返しではないことを強調してゐます。習慣になれば判断なしに物事ができるやうになるのではなく、習慣により判断が直ちに実行に結びつくのだと言ひます。動物の学び方と人間の学び方が全く別だと言つてゐるのは、おもしろいと思ひました。アランの父親は獣医でしたので、子供の頃の経験がこの発言には生かされてゐるのでせう。是非、本文を読んでみて下さい。
この章でもアランの考への核となる部分が姿を見せます。
一番簡單な練習も情熱に對する戰ひ、特に恐怖や虚榮心や焦燥に對する戰ひなのである。
あるいは、
實際に奴隷となるには、自ら奴隷だと信ずる事で充分だ、といふ事を理解し給へ。これは大事な事だ。自由意志をこれほどよく説明してゐるものはあるまい。
翻訳についての細かな点をいくつか。最初の段落に
判斷はすんだ行爲の直ぐ後を追ひかけてゐる樣なものだ。
といふ文があります。原文を直訳すれば、
判断に実行がすぐに付いてくる。
となるのですが、ここは修辞的にかう 訳したのかも知れません。
第二段落に
動物は、目を廻す事はあつても決して放心はしない。
とあります。原文では
L’animal n’est point distrait; il n’est qu’étourdi.
なのですが、「放心」に当たる distrait は他のことに気を取られてゐるさま、「目を廻す」の étourdi はよく考へずに動く状態です。要するに、動物は考へ無しで動いてゐるのであり、他のことを考へてゐる訳ではない、と言ひたいのでせう。
第四段落の半ばあたりに「僕は常に考へてゐる。」といふ文が独立してゐますが、原文では、その前の文章に続き、<徹底した愚鈍を假定してゐる、と僕は常に考へて来た。>となつてゐて、誤植か何かではないかと思はれます。
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