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第4章 習慣について

注釈へ

習慣は普通あまりに低く置かれてゐる。私はそこに驚くべき柔軟性を見る。いつでも同じ道を辿らうとする頭の固い機械仕掛けを遥かに超えるものだ。踊り手や剣士が習慣の力によつて突然の障害から判断力が働くよりも先に身をかはすのが見られる。だがかうした訓練を経た者達の内には、ゆとりと動きの自由もあり、判断がすぐに実行につながる。習慣はこれにしばしば対立する。ただ注意すべきなのは、私がワルツを逆に踊れないとしても、別の向きに踊る習慣がそれを妨げてゐるのではない、といふことだ。良い騎手であることが良い鉄砲打ち、良いヴァイオリニスト、良い漕ぎ手であることを妨げるわけでもない。軽業師はある種の柔軟性を要する技の名人だが、他の技も楽にこなすことは明らかだ。

同様に言葉や作文の練習で、慣用句と呼ばれる言ひ回しから逃れられるのだが、繰り返しは他の言ひ方に慣れてゐないから起こるのだ。この注意は即興演奏家をこの危険な分析の入り口で立ち止まらせるためだ。人は上からの命令が介入することなく動く人間機械を描くといふ誘惑に駆られるものだからだ。しかし音楽家、体操選手、剣士は我々の体系を相手にしない。私は、何か難しい行動を学んだ全ての者に問ひ掛けたい。私の鉄砲の先生は、アルザス独特の言ひ方で、素質のある打ち手と判断力のある打ち手を区別したが、哲学についても教へてくれてゐたのだ。

やり方を覚えた動作は注意しなくても出来ると言ふのは誤りだ。うつかり者とは自分の動作を動くままに任せる者だと私は思ふ。だが細かく分けるといふ方法を使ふ愚かな者でもある。動物は決してうつかり者ではない。ぼんやりしてゐる(考へがない)だけだ。この点は強調せねばならない。良い騎手が判断なしで乗つてゐると言ふのは全く正しくない。良い職人が判断なしでうまく調節すると言ふのは全く正しくない。私はむしろ、ここでは習慣のおかげで判断に直ちに動きが従ひ無駄がないのだ、と言はう。わづかでも考へや反省がよぎると体操選手は落ちてしまふ、と聞く。彼の体が、続いた命令なしでは、どこに行けばよいか分からなくなるといふ証拠だ。彼がしがみつくとすれば、それは本能だ。痛みなく落ちるといふ術を、彼らはよく心得てゐるが、これも決して判断なしではないと私は考へてゐる。

動物も同じやうな柔軟性を見せるが、判断が欠けてゐるためだ。我々はふつう両者の間にゐる。本能は、我々の自然な考への中では、さわぐ心、硬直、不器用へと変はる。考へることの代償は、うまく考へねばならないといふことだ。我々は考へずに動く術を知らないので、うまく考へることなしでは然るべく動けないのだ。しくじりを恐れるのが主な障害であることは人の知るとほりである。この種の恐れは全ての恐れの中でいつでも主なものだ。だがこの恐れは始まらうとして互ひに妨げあふ数多くの動きの感情に他ならない。これに打ち勝つて、望むところを為すには、望むものだけを為さねばならない。例へば足を動かすことなく腕を伸ばしたり、言ふ事を聞かない錠を歯ぎしりせずにうまく開けたり、或はまた握り締めないで(ヴァイオリンの)弓を持つたり、息を止めないで馬に乗るといふやうに。一番簡単な体操でもさわぐ心との、特に恐れ、虚栄心、いらだちとの闘ひでなのある。

学び方には二通りあり、習慣は本能でも本能の延長でもないことに、ここで合意しておかう。動物は、そして動物である限り人間は、物の制約や機械的な模倣により、常に繰り返しにより学ぶ。これはまづ運動が刺激し強める筋肉の栄養補給によつて説明できる。また、お望みであれば、神経や神経中枢に残される痕跡によつても説明できよう。繰り返される反応が抵抗の一番小さな道として刻み込まれるのだ。それでも、馬を従はせる一番良い合図はいつでも圧力と制約であり、ある運動を妨げ別の運動を助けるものだといふことには注意すべきだ。この機械的な動きは決して知性には似てをらず、動物の調教は彼らが理解してゐることを証明するどころか、逆にその完全な愚かさを前提にしてゐると、私はいつも考へて来た。

人間は全く別のやり方で学ぶ。機械的な繰り返しに依るのではなく、いつでも注意力を維持してゐるといふ条件で、別の言ひ方をすれば、実行される動きが望まれた自由なものであり、体がそれ以外の動きをしないといふ条件で、やり直すことに依り学ぶのだ。どんな筋肉の収縮でもすぐに隣の筋肉を目覚めさせ、しばしば対抗する筋肉も目覚めさせるので、我々の四肢は堅くなり、疲れ、全く進まなくなるといふのは確かに正しい。だが私はこの体の混乱の主な原因は、考への混乱で、間違ふのではないかといふ恐れによりさらに酷くなつたのだと思ふ。この恐れは全ての活動にとり極めて有害だ。全ての練習で、勝利は突然に来ることに注意しよう。判断が明確な知覚を形作り、体が従へば、全ては身に付く。習慣の魅力とその自然な力は、トランプを切ることであつても、うまくできる事をやる時に感じる幸福感から来る。

この理由で怠け者の気晴らしは十分に説明されるのだが、これに運命論的な考へのもとで、酷く誤つた判断が加はる。それは、我々の習慣は我々の主人であり、それが我々を引き寄せ小さな動きで我々を呼ぶと、それに抗ふことは絶対に出来ないといふ考へだ。ある年配の人が、健康状態により、仕事や友人や楽しみを離れて新しい仕事に就くことを余儀なくされて、かう言つてゐた。「多くのものは無しで済ませられるものだ。」戦争をした者は誰でも、生活を変へるのは着物を変へるのと同じくらい早いと言ふだらう。だが事前にはさうは思はない。

有害な習慣の治療は、習慣がこの誤つた判断から全ての力を引き出してゐることを、経験により見せることにある。だが治るのは治療が続いてゐる間だけだ。逆の経験を一つでもすれば、誤つた精神が戻つて来る。さわぐ心に悩んだ者は、ここに自らの姿を見るだらう。さうした人達は、なぜ治療がそんなに簡単だつたのか、またすぐに再転落するのかを、反省によつて理解するやう努力してみることだ。だが、自らを奴隷だと考へるだけで実際にさうなるのだといふことをよく理解しよう。これが一番大事だ。これほど自由意志といふものを明らかにするものはない。


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