決定論と自由意思との矛盾は、近代科学が成立して以来、哲学者達を悩ませ続けた問題です。アランは先づ決定論と宿命論とは別物であることを強調します。
宿命論者の考へに依れば、書かれ豫言されてゐるものは、原因がどうあらうとも將來實現する
のですが、
決定論者に言はせると、最も小さな變化も、大きな不幸を追拂ふ
ので、明らかに予言された不幸は決してやつて来ません。
しかし、宿命論者はさう簡単には引き下がらない。
若し不幸が避けられたのなら、つまり避けられる樣な宿命だつたのだ、と言ふ。
アランはかうした考へ方を「神學的決定論」と呼びます。そしてこれを直接否定する代はりに、「爲ろといふ事は何でも爲る、そして又一方自分の爲る事を欲してゐる、從つて自分の望むところを爲してゐると信じてゐる」やうな狂人と僕等とは違ふことを証明して見給へ、と問ひかけるのです。
最後の段落では、「明瞭な決定論」が我々の為すべきことに何の影響も与へないことを示します。
スピノザは言つた。「叡智は君を救ふのだ、必然に依つて救はうと、何に依つて救はうと」。では、僕等は一體何について議論しようといふのか。
この章の論の運びは、私にはわかりにくい部分があります。ベルグソンのやうに、機械的な自然観は人間には自然な考へ方だが、繰り返しの相の下でしか物を見ないので、時間とともに豊かになる現実を一面的にしか捉へることができないのだ、と言ひ切つてしまふ方が納得しやすいのではないでせうか。
ただ、第二部第十二章「メカニスム」に見られるやうに、アランにとつて機械論は、宿命論にうち勝つて精神を解放するための道でした。それを単純に否定するやうなことは言ひたくなかつたのではないか、と想像してゐます。
翻訳で気になるところを二つだけ。第二段落の最後に
無敎育な 人間は決定論者の思想を進んで受け容れ勝ちな處から、かういふ混亂が生ずる。
とありますが、因果関係が逆で、
この(決定論と宿命論の)混同により、教養のない人達は決定論の考へを進んで受け入れるのだ。
と訳すべきところでせう。
第三段落の真ん中あたりに、
とあります。ここは
だから殘る問題は、これを支持するものが神の慈悲か神の智慧かといふ事になるだらう。
残るのは神の善意と知恵のどちらが勝つかといふ論争だ。
といふ訳の方が原文の意味に近いと思ひます。
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