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第6章 精神と身體の一致

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私はこの本の中でこのあたりの数章が特に好きです。アランの文章を小林秀雄の翻訳を参考にしながら一度きちんと読み直したいと思つたのも、この辺をよく理解したいといふ気持からでした。しかし、一番惹かれる部分が一番難解です。

まづ題名ですが、「一致」と訳された言葉は union です。uni-はラテン語で一を意味する言葉から来てゐるので、union は一つになること、一つになつてゐる状態を指すと言へるでせう。<精神と身体の結び付き>といふ訳も可能だと思ひます。

最初の段落でアランは、この「何物も約束せず、何物も望まず、僕を好きとも嫌ひとも言はぬこの廣大なメカニスム」と、それを眺める精神が同等だと言ひます。そして

部分や距離が存在するのは、部分も距離もない精神の單一性に依るのだ。

と付け加へるのです。ここで「單一性」と訳された言葉は unité ユニテです。

ベルグソン論の『感想』が次の一文で中断されてゐるのを思ひ出します。

ベルグソンの仕事は、この經驗の一貫性ユニテの直觀に基づくのであり、彼の世界像の軸はそこにある。「哲學は、ユニテに到着するのではない。ユニテから身を起こすのだ」

第二段落では「心理學者」が批判されます。皆さんは世界と自分との関係についてどう考へてをられるでせうか。「外部の事物の動きが、精神の裡に先づ感覺を生ずる、これに依つて精神は、自分の中に外部の事物その他すべてのものを再生する」そんな風に考へてをられるとすると、まさにここでアランが「恥を掻かせてやりたい」と言つてゐる読者の一人になります。

アランの議論は、かうです。この説では宇宙は私の心の中にあることになるが、他方で心は宇宙の一部に過ぎない体の中にあるのだから、包含関係が逆になるではないか。かうした議論を言葉の罠に懸からないで進めることは難しい。また、所謂科学的な物の見方は私達の考へ方に深く根付いてゐるので、そこから自由になるには、ベルグソンがやつたやうな綿密な議論が必要になります。アランはさうした議論に深入りはしないで、「君の精神を信用し給へ。」といふやうな言ひ方をします。

最後の二段落の末尾は、いづれも分かり難い文章です。第三段落の最後は、小林訳ではかうです。

要するに僕は自分の奴隷たる身分を承知してゐると附言しても冗談と取らないでくれ給へ、又常識に反する言とも。

自信はありませんが、

私は自分の奴隷状態を知つてゐる。だが私が気ままに、良識に反してそれを膨らませると思つてくれるな。

といふ訳も可能かも知れません。

最終段落の末尾は、かう訳されてゐます。

人間は苦しみ、動き、 模倣し、發明する。僕は在るが儘の奴隷の境遇を受取る。愛しもする。この死屍を引摺つてと言ふ人もあるかも知れないが、僕は引摺つて仕事をし乍ら絶望はしない。

私は次のやうに訳してみました。

人間は身に受け、動き、真似し、考へ出す。私はそれを見えるとほりに受け取る。そして私は、真に絶望することなく、人が言ふやうに、死体を引きずりながら働いてゐる、そんな人間が好きなのだ。

小林訳では「死屍」を引きずりながら仕事をするのが著者のアランですが、私の訳では人間になつてゐます。文法的に言ふと、le といふ代名詞が隷属状態を指すと読むと小林訳になり、拙訳では人間を指します。


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