この章も刺激的な言葉に満ちてゐますが、難しい文章もあちこちにあります。アランは先づあらゆる自由が「審判者といふ中心觀念」に依存してゐることを強調します。審判者の、つまりは各自の判断がないと本能や情念に流されてしまふ、と言ふのです。
判断とは先づ「最初の運動を運動の本源に送り返す」こと。さうすると動機の幾つかはすぐに消えてしまふ。あるいは動機を「正しい知覺で表」し「結果までの道を辿る」こと。あるいは又「動機の獨り歩きを禁じて了ふ」こと。「例へば、正直者は、捕まらない樣に泥棒するにはどう爲ればよいかなどと探求はし」ない。いづれにせよ「ここでは裁判官(=審判者)の恩寵なくしては、動機は存在しない」のです。
第二段落では、判断は一度すれば荷が降りるといふものではなく、「自己に關する不斷の確信と一歩一歩眞率に眼を凝らす事」が意志といふものだと言ひます。
この段落で
情熱人に有り勝ちの事だが、他人が輕率に加はつた仲間に飛込むのは無論馬鹿氣た事だ。
と訳されてゐる文章は
不用意に決めたことに自分を縛り付けるのは、心がさわいでゐると有り勝ちだが、馬鹿げてゐる。
と訳した方が、意味が通るのではないでせうか。『論語』学而編の「過てば則ち改むるに憚ること勿かれ」です。
細かな点ですが、第三段落で
行爲の最中でも、注意が突然身體から離れる事がある。
と訳された文は、
行動の最中には、注意は身体から完全に離れる。
意味で、ピアニストはその例として挙げられてゐるのだと思ひます。
第四段落の
隱された發條でも見せる樣に、自由意志を諸君にお眼に掛けるわけには行かぬ。精神は自體で捕へられるものではない、精神はいろいろな物の裡に自分のいろいろな觀念を再發見するに過ぎぬ。
といふのも、興味深い指摘です。そして、段落の最後では
神とは信念自體に他ならぬからだ。
と断言してゐます。
この段落には、いくつか意味の取りにくい所があつて、悩みます。小林訳で
若し自由意志に關する何等かの證據が在るとするなら、僕は、さういふ風な言ひ方で定義したい。
とある文を、中村雄二郎さんは、
自由意志の存在についてなにか証明があったとすれば、それできみたちに説明しただろうが、そんなものはないのだ。
と訳してをられます。(脚注 1)
最後の段落も、アランらしい言ひ方で一杯です。例へば
善は信じなければならぬ。何故かと言ふとそんなものは存在しないのだから、正義も又さうだ。正義は愛せられ望まれると信ずる勿かれ。さう信じても正義に何物も加へる事にならぬからだ。たゞ、自分は正義を行ふと信じ給へ。
この段落でも、
彼等から見れば、自分の精神に這入つて來る凡てのものを信ずる眞の思想家は狂人に過ぎまい。
といふ文が分かり難い。中村雄二郎さんも同じやうに訳されてゐるのですが、私は次のやうな訳の方が文脈には合ふといふ気がします。
真の思想家は気違ひで、精神にやつて来るものを信じるのだといふことになるのか。
その前の文でアランは「生活の赴くが儘に生きてゐる樣に、思索の赴くが儘に考へてゐる思想家」を批判してをり、この章では判断の重要性が強調されてゐることから、頭に浮かぶ考へをそのまま信じることは否定的に見られてゐると思ふからです。
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