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第6章 心と体の結びつき

注釈へ

私は全く議論はしない。注意深く、何の敬意を払ふことなく、この大きな機械仕掛けが何も約束せず、何も望まず、決して愛することなく、私を憎むこともないのを見つめる。私にはそれを見つめる精神が少なくともそれと同等だと見える。それが示すものを超えて中に入り込まうとし、広がりではそれを超えないとしても、いつでもそれと肩を並べる。精神が諸物の上に広がり、自分を分けて諸物を掴まうとすると見えるわけではない。逆に、精神が部分も距離も持たず一つであることにより、部分と距離があるのだ。部分はそれ自体ではそのものでしかなく、従つて部分ではないのだから。そして二つの部分間の距離も、それらの外側にある。

だから、この部分を持たず全てを包む魂がどこかモグラの穴に閉ぢこもるのを心配するには及ばない。少し考へて見給へ。もし君の魂が君の体の中にあるのなら、心が君の体と他のものとの距離を考へることはできないだらう。この巨大な網の職人は、同時に全ての場所に丸ごとゐなければならない。どうしてそんな所に捕まるだらうか。恐れることはない。君の魂を信頼し給へ。

だが、心理学者は言ふ。かうした全てのこと、距離や大地や星々は私の心の中にあり、私の心は私の体の中にある、と。だが、ここで私は心理学者の内幕を見せてゐるので、彼がこのとほりに言ふわけではない。発言するときにいつも彼の気にかかつてゐるのは、このとほりに言つてしまふのではないかといふ恐れなのだ。この内と外、含むものと含まれるものとの遊びで、この私の体は、無数の物体に取り囲まれてゐるが、私の心の中にあり、にも係はらず私はこの宇宙が、今度はそのわづかな一部に過ぎないこの私の体の中にあるのだと知つてゐる、さう言つたとすれば顰蹙を買ふだらう。私はここで読者の君を赤面させたいと思つてゐるのだ。もし君が心理学者達の気まぐれな教義に従ひ、外部の諸物の働きが魂のうちに先づ知覚を生じさせ、それに基づき心が自らの中にこの外部の物やその他全てを描き出すのだと考へてゐるとすれば。

だが、外部にある別の物の、最初の働きはどこから来るのか、それはどこにあるのか。心が見出すのはそれなのか、心は自らから抜けだすのか。実を言ふと、君達がここで描いてゐるのは動く動物だ。そして諸物の働きがその中に入り、反応がそこから出てくると言ふのは本当だ。だが、感覚、脳、筋肉によつてだ。その中に心を置くことはできない。諸君が一瞬その眼で見て、それから観察者の場所に戻るのが好きだとは知つてゐる。しかし、このやり方は真面目なものではない。心はこんな風にある体から別のへと移動はしない。私の精神が私の体にどの様に結ばれてゐるにせよ、それはしつかりと結ばれてゐる。

出来る限り考へるべきは、この結びつきだ。それは私が各瞬間にそこから世界を考へる視点によつて感じられる。それは私の体の動きによつてしか変はらない。私が樹に隠されたこの鐘楼を見たいと思へば、私の体が位置を変へねばならない。また痛みにより、体が傷つけられるとすぐに、それが私の物だと感じられる。最後に、従ふことによつても、それは私のものである。私がしたいと思ふ動きは、すぐに私の体がする、或いはしようとする。これが心と体の結びつきについて私が知つてゐる全てだ。もし痛みに、逸らされた注意、気持の落ち込み、放心状態を含めて考へるとすれば。私は自分の奴隷状態を知つてゐる。だが私が気ままに、良識に反してそれを膨らませると思つてくれるな。

私の精神が私の体の歯車の一つでないこと、また宇宙の一部分でもないことは明らかだ。それは全ての全てだ。私はここで推測してゐるのではない。ただ述べてゐるだけだ。私の最初の考へは宇宙の知覚であり、そこには何の不足もなく、後で何も戸口から来るやうに入つては来ない。ただ私が照らし出すだけだ。この膨大な知る力と、それに一つの中心、条件、視点を強ひるこの小さな客体との間の接点を見出すことは、我々の力学を超えてをり、全ての力学を超える。我々の隷属状態は従つて事実なのであり、理論的なものではない。そして事実の中では、制限のない隷属状態を見つけることは出来ないだらう。我々はそこに定常的な隷属状態を見出すこともないのだ。人間は身に受け、動き、真似し、考へ出す。私はそれを見えるとほりに受け取る。そして私は、真に絶望することなく、人が言ふやうに、死体を引きずりながら働いてゐる、そんな人間が好きなのだ。


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