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第9章 恐怖

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この章でアランは、恐怖は気持の持ち方の問題が大きく、考へるのではなく動くことが恐怖から逃れる道だと、繰り返し述べてゐます。その論旨は明快なのですが、文章は読みにくいところが幾つかあります。

最初の段落では、これからの数章で怖れ、怒り、涙などの「情熱の発作」について、特に情念との係りを中心に述べることが書かれてゐます。「情熱の発作」は中村雄二郎さんの訳では、「情念の頂点」となつてゐます。最も激しい情念の形、情念の極まるところ、といつた意味でせう。

二番目の段落は、恐怖に伴ふ筋肉や血液の動きについての分析です。小林訳で

急激に増減する恐怖の動きに屢々續く驚愕の感じから、血行に對する筋肉の準備の感じがよく解る。

とある部分は、中村さんの訳では

不意打ちをくらうと、しばしば、続いて、急激に増減する恐怖の動きをともなうが、このことから、筋肉の準備が血液の循環に対してどういう効果を生むかがよくわかる。

となつてゐます。多分、この方が原文の意味に近いでせう。

第三段落でアランは、かうした体の動きを感じて、「一體自分はどうしたのだらう、と自ら問ふ」ことが恐怖を抱くことなのだと言つてゐます。この段落の始めに「これは驚きに過ぎぬ。」といふ文があります。驚きと訳されたのは sursaut といふ語ですが、心の動きよりも体の動きを指すものと思はれます。びくつとする、縮みあがる、といふ感じではないでせうか。

同じ段落で、

再び安息に戻るには、次々に自ら生れて來る對稱のない不安を一層よく味はうより外はない、とも言へる

とあるのは、中村さんの訳されたやうに読むのが良いでせう。即ち

次から次へとおのずから生まれてくるいわば対象のない不安を、いっそう痛切に味わうことになるだけだ。

といふ具合です。(いづれにせよ「對稱」は「對象」の誤植だと思ひます。)

最後の段落では、「この病氣から救つて呉れるものは行動」で、「不安と躊躇とは病勢を悪化する」ことが指摘されます。この段落に

媾曳あひゞきにも恐怖は付いて來る。

とあり、中村さんも同様の訳をつけてをられるのですが、

La peur ne manque jamais au rendez-vous.

といふ原文は、卑見では、

待つてゐると恐怖は必ずやつて来る。

といふ意味です。

また、

自分が弱く無力だと思へば實際にさうなつて了ふのだ。 自分自身を知つて、結局行爲する樣になりはしない、行爲は屢々希望以上のものだから、苦しむのが落ちだ。

といふ文があり、中村さんの訳も、ほぼ同じです。自信はないのですが、

(弱いと思ふと実際にさうなるのは)動くときではない。我々の動きは時に我々の期待以上のものになるのだから。さうではなく、苦しむときだ。

といふ読み方もあり得るのではないでせうか。

さういふ次第で、自己觀察といふのが、まさしく一種の狂氣の端緒に他ならないのだ。

といふのは、アランらしい言葉です。


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