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この章では、怒りが、怖れとの関係を軸に分析されてゐます。例へば最初の段落には、
どんな怒りにでも常に自己に對する或る怖れがあり、同時に、怒れば救はれると言つた樣な安心への希望がある。
とあります。
この章には、アランの人間に関する深い洞察を感じさせる文が幾つも出てきます。第二段落の
怒りの裡には、恐らく當人が白状する以上の粉飾があるものだ。
とか、第三段落の
充分豫見せ ずに、やつつけ樣とする際には、いつでも其處に少しばかりの怒りがある筈だらう。恐怖を押して行はうとする事が、そもそも怒りそのものだと言へよう。
とか。
思ひ切つて言へない事が言ひ度いといふ事と怒るといふ事とは同じものだ。臆病者や嘘吐きに共通したあの赤面といふものも恐らく内攻した怒りなのだ。
といふのも、成る程、と思はせます。
眞の戀愛の裡にあんなに澤山の怒りが見られるのもこの故で、相手を傷けやしないか相手から悪く思はれやしないかといふ怖れの爲に、怒りの助けを 藉 りなければ思ひ切つて戀愛行爲ができないといふ始末になるのだ。
といふ指摘も鋭い。
細かな部分で、翻訳の気になる部分が二三あるのですが、省略します。最後の段落に「憎む理由は持ち乍ら憎むには至らぬ場所が屢々あるのはこの故だし」云々といふ文がありますが、「場所」は「場合」の誤植ではないかと思はれます。
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