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第10章 怒りについて

注釈へ

怒りはしばしば怖れから生まれる。最初の動く機会、あるいはただ話す機会が来ると、全筋肉の落ち着きの無さは進むべき向きを与へられる。しかし、その動きには、怖れによる震へがいくらか残つてゐる。全ての筋肉がそこに向かひ、落ち着きの無さはそれ自体により強められる。全力で泣く子供が、自分で自分に与へる苦しさと聞こえる泣き声により、ますます泣くのに良く見られるやうに。これは怖れだらうか、怒りだらうか。分からない。二つは混ざつてゐる。大人の場合は、全ての怒りに、いつでも自分自身への怖れがある。同時に、怒りが我々を解き放つかのやうな、楽になれるとの期待がある。怒りが動きへと変はれば、我々を解き放つのだ。しかし、怒りが身振りと言葉とに費やされることもしばしばだ。さうなると、外からでは判断できない。激しく難しい動きは、怒りの全ての印を示すことが多いのだから。しかし、効果を挙げるには、先が見え、ある程度自分が抑へられなけれならない。だからプラトンは、怒りは、狩人に従ふ犬のやうに、勇気に仕へるのだと言つた。

しかし、怒りは私の命令には全く従はない。脚、腕、舌とは違ふ。誰もが、怒りによりいつでも望んだよりも先まで引つ張つて行かれると感じてゐる。多分、怒りの中には、それが単なる痙攣や神経の発作でなくなつた時には、人が自ら認める以上の喜劇があるのだらう。人は、何かするのを学ぶのと同様に、怒ること、怒りを導くことを学ぶ。多分、人が自分のことを考へながら動けば、怒りが生まれるのだらう。全力で進むに任せれば何ができるのか、自分でもはつきりと分からないで、といふ意味だ。剣士ができる動きがある。しかし、少し無理して早くし、ある種自分自身を越えようとするには、あらゆる危険とともに、動物を解き放たねばならない。これはある種の短時間の怒りのやうだ。最初に態度と動きにより準備され、次に銃の一撃のやうに放たれる。しかし、怒りに任せた動きがやがて乱れるのも、経験から知られてゐる。また、表に現れた怒りは、短い発作のやうに起こり、その合間には反省し、自分に戻ることも見て取れる。それに、新しい動きをするときには、自分が何をするのか、どうすれば良いのか分からないのは、明らかだ。だから本物の即興には怖れが先立ち、いつも怒りが伴つてゐる。

従つて、我々が十分に先を見ずに敢へて事を起こす時には、必ず少しの怒りがあるだらう。怖れにも係はらず動くこと、多分それが怒りそのものだ。これは人が集まるときのおしやべりでも見て取れる。わづかでも怒りで声が震へると、あるいは、声に雄弁な調子でもあると、その調子外れに人は耳をそばだてる。こちらは、何か害にならない機会があれば笑はせて、それを償ふ。それは怒りが即興で出される印で、その続きが分からない新しいことを言ふからだ。言ふことが憚られることを言はうとする、そして怒る、これは一つのことだ。顔の赤さは、臆病や嘘つきと共通だが、多分これは抑へられた怒りだ。怒りは、長い社交上の嘘の後に来ることがよくある。怖れが黙つてゐた後に、怖れが語るのだ。しかし、私が言ひたいのは、はつきりした害悪の怖れではなく、自分がすることも含めて、予測できないことの怖れなのだといふ点をしつかりと見て欲しい。そのため、本物の愛に多くの怒りが見られるのだ。傷つけたり、気に入らなかつたりするのではといふ怖れから、荒れ狂はないと危険を冒せないのだ。だから、何か結果を見せられても、私には憎しみを信じることは難しい。愛と怖れが我々の罪を十分に説明する。

怒りは、従つていつでも自分への怖れであり、正確には自分がしようとすることへの怖れであり、それが近づくのが感じられるのだ。だから人は自分を誤魔化さねばならぬ状況を作る人達に対して怒りを持つのだ。さうすると、震へが極普通の言葉の中にも感じられる。不躾は、それ自体が気分を害する。そして、恐らく気分を害するものは、予測できないものの中にしかないのだ。怒りは、かうして千の道筋で礼儀と結ばれてゐる。行動と共に進み、殆ど考へのない怒りを除くとしても、本物の怒りは、振る舞ひや言葉使ひについての惧れから、一人一人が社会の中で自らに課す制約により生まれるのだと、私は言はう。かうして、小さな原因でも怒りに限りがないことが、どうしてあり得るのかが分かる。怒るやうになるのは、自分を長い間怖れることからなのだから。また、恨みは怒りの原因であるよりも結果であると、私は考へる。恨むとは、苛立つだらうと予測することだ。だから、恨む理由は見つかるのに恨みを持たないことも多いのだし、近づくと決して弱くない恨みの理由を見つけるのが難しいこともある。これを理解することは、心の平和にとつて大事なことだ。怒りを持たないことは難しいが、怒りから恨みへと跳ぶことは、賢者は決してしないのだ。


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