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第11章 暴力について

注釈へ

だれもが、ものに対してでも、しばしば些細な理由から、戦争行為に身を任せたことがある。読者は注意深く日常の生活を調べて欲しい。結ぼれたさわぐ心の効果を見出すだらう。ほぼ皆が体操をせずに生きてゐる。その生活には制約、堅さ、臆病が一杯だ。見せかけの礼儀のなかで、世間への気配りには、抑へられたり逆らつたりした動きが多く、震へ、顔の赤さ、血液の移動を示す熱い波は、この武装した平和の印であり、自らに反した努力により一層酷くなる。想像力は同じ道を辿り、自ら筋肉を解放するまで進む。かうしてうまく制御されない考へは簡単に力による解決に陥る。少なからぬ人間が、全ての陣営で、戦争への道についてそんな風に考へる。法律は牢屋を、死刑台を、銃の一撃を求める。そこから果てしなく諸悪が生まれる。最悪なのは、多分、正義が力によりなされることだ。正義を憎ませ、あるいは誤つた仕方で愛させるからだ。

これは、しかし、ただ混ぜこぜになつてゐるだけだ。思考は正義を肯定し、そこでは決して譲らないのだから。そして体は行動を必要としてゐる。かうしてこの夜には薄明かりがある。怒りは、考へることの義務を照らす。眠るな、正義の仇討ちまでは、とさわぐ心は言ふ。だが、先づ眠らねばならない。もし人々が、全てが苦労なく収まり、始めようとするときには全てが済んでゐるやうな、幸せな瞬間をもつと経験してゐれば、この苦しく無理をした動きを思考とは受け取らないだらう。そこでは、議論は他人に認めて貰ふことだけの意味しか持たず、それも想像の上なのだ。これらのものの虜になつてゐる者が、(牢屋の)壁越しに、あるいは明かり取りの窓から、意味のあることを私に言つた。他人の考へを変へる考への力もまた、彼には一種の暴力だと見えると言つたのだ。確かに、多くの人にとつては、考へるとは作り事をすることで、勝てばいつでも空に舞ひ上がるのだ。実際に、私は、私を説き伏せようとする文筆家は決して好きにはならない。これは雄弁が価値のないものである一つの理由だ。精神は一人でゐなければならない。

戦争は全てのさわぐ心の終着点であり、その解放のやうなものだ。だからさわぐ心は、皆、そこへ行く。どれも、機会を待つてゐるだけなのだ。恋人が浮気な相手を、富める者が貧しい者を、貧しい者が富める者を、不正な者が正しき者を、正しき者が不正な者を罰したいと思ふといふのは、全く真の平和な状態ではない。思考は、そこでは牛追ひ棒でしかない。悪い眠りだ。かうして自然の原因は、戦争の敵もまた戦争に投げ込んだ。かうした考へは、大きな動きや自由な怒りがなくては止めることができない。従つて、統治者たちが戦争を解決策と考へてゐるとか、ヴォルテールが考へた様に、さわぐ者たちを殺すためにしてゐるとか、想定する必要はない。戦争は一つの解決策ではなく、解決策そのものなのだ。嫉妬する者は喜んで殺す。怖れは後からしか来ない。

これが戦争の中身だ。その形を扱はうとすると、本が一冊でも足りぬほどだ。だが、この集団になつたさわぐ心の力に気付かない者がゐるだらうか。そこでは、野心による怒り、病的な怒り、年齢から来る怒りが、是認と栄光とともに自らを現してゐるのだ。模倣と純真さにより最良の若者達がそこに投げ込まれる様子が、そして、早熟なさわぐ心により最悪の若者達もまたそこに投げ込まれるのが、目に入らぬ者がゐるだらうか。さらには、徴兵する者たちの昔ながらの技が、いつでも状況に適応し、強制をかつてないほど巧みに隠し、徴兵された者たちに長く微笑む様が。何より、運命論的な考へが、預言者たちの猛りや彼等の現実に対する力により、多分ここでは他の全てのさわぐ心の中よりも力を持つ。我々にとつて不幸なことに、宣言する者たちは、同時に決定する者たちであるのだから。この話題は避けたいと思つてゐたものだ。それには全部の場所が要るだろうから。しかし、私の考への中では、それが全てを占めてゐる。そして、この本は全部、戦争についての考察に他ならない。そこからは、言葉を選ぶことで、刺激の強すぎる有様で、余りに戦争に対する戦争を思ひ起こさせるものが除かれてゐるだけだ。


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