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第12章 涙について

注釈へ

涙は、鼻腔の中に中心を持つ血液の緩衝装置と結びついた、一種の自然の瀉血だと考へることができる。従つて涙は気が楽になつた印で、危機の解決策のやうなものだ。小さな子どもの顔には、これが良く見て取れる。そこには、筋肉の大仕事を示す波が起こるのが見えるが、行動はないのだ。この嵐は、危機の強さにより、笑ひか涙で終はる。大人の場合には、医者は涙を、死や狂気にもつながり得る、極度な筋肉の緊張状態の有効な解決策と考へてゐる。涙の露が我々の最も深い喜びを表すことも、そこから説明される。だが、それはいつでも、驚きや縮みあがりの後なのだ。

我々はこの上ないものに感じて涙を流すが、たぶん二重の動きによる。この上ないものは、最初の瞬間には、我々を押し潰すのだから。しかし、やがて判断力が理解し、主となる。そこから、広がつて世界を覆ふ至上の感情が出てくる。また、驚きへの反作用により、甘美な涙が出る。乾いた心の持ち主の多くが、劇場に行つて泣くのを見て、人は驚く。彼らが、その本当の力を一瞬でも感じるには、芝居と力強い仕草signesが回りにあることが必要だといふことだ。そこには多分、いくらかの自らを省る動きと、同情とがあるだらう。また、その点で誤解することもすぐに起きる。多分、観客自身も誤解してゐるのだらう。何の費用もかからない同情に酔つてゐると考へてゐるのだらう。我々の喜びは、苦しみ同様に、我々を誤らせる。

涙は、苦しみの、むしろ狂乱の頂点の後に来る。従つて、いつでも気を楽にするもので、慰めの印となる。また、涙は悲しみそのものの印ではない。むしろ、しやくりあげ(嗚咽)がその印で、いつでも涙がこれに続く。戦慄(戦き)は、恐れと怒りの混ざつたやうなものだ。長続きはしない筋肉の緊張状態なのだが、急に終はることもない。最初の緊張緩和と涙の一流れの後に、不幸は再び姿を現し、痙攣が続く。不幸な男は、また死ぬ思ひで、あらためて涙を求める。やがて全てを放り出してそこに身を投じる。しかし、戦慄(戦き)は急にぶり返す。しゃくりあげ(嗚咽)は、胸郭の不規則な動きに因る。それは、中断されたため息だ。ため息は、苦しさといふ考へが少なくとも一時的に遠ざけられたとき、緊張状態に自然に続く。

人は泣くことを学ぶのだと思はれる。全てが止まり、自分に対する暴力に怯える瞬間には、人は涙を求める。子どもはそこに身を投じ、言はばそこに身を隠して、自分の痛みを見まいとする。強い男がしゃくりあげ(嗚咽)を堪へると、嫌な時間を過ごす。しかし、彼は、涙に身を委ねるととたんに強まる自分の弱さといふ感情を免れる。その場合には、自分を当てにせず、全てを他人に期待しなければならないのだから。私は涙で気持ちが軽くなると言つた。しかし、それは身体の上の話だ。半分しか本当ではない。涙に身を委ねると、命を止めやがて破壊するやうな絶対的な絶望からは救はれる。しかしまた、自分の弱さをより強く感じる。唐突な努力は試みるが、すぐに崩れ落ちるのが、その姿だ。人が、反省と判断の力で、この悲劇的な痙攣を、単なる機械的な動きへと投げ返し、自然に対して許しを与へないとすれば。さうすると、人は息を詰まらせることなく泣く。さらに、涙によつて、自分の不幸をよりよく見分け、雹の後の農民のやうに、その範囲を限るのだ。

涙についての慎みがあり、礼儀により余りそれを見せてはならない、といふことは理解できる。それは、他人が多分隠さうとしてゐる苦しみについて、余りに粗野に質問することだからだ。また、喪に服した女たちは、顔を隠す。しかし、参列者たちはさうではない。多分、その原因が知られて公になつてゐる悲しみについては、涙の伝染は、心を痛めたばかりの者には心地よいからだらう。儀式の知恵とはかうしたもので、これについては後で十分に述べる。しかし、この点については以上で足りてをり、多すぎたかも知れない。かうした記述は、人の中に狂気ではないある種の悲しみを呼び起こすからだ。慎重な哲学はこの不幸を扱はない、といふことは、既に述べた。


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