正義といふ題目でアランは三つの章を書いてゐますが、いづれも経済的な平等が話題とされてゐます。これはこの文章が書かれた20世紀初頭の欧州の社会情勢を反映したものでせう。日本でも「正義の味方」と言へば、悪代官を懲らしめる水戸黄門などがゐますが、どうも社会全体を視野に入れた、経済面での善悪の議論までは至らないやうな気がします。
『文明論之概略』で福沢諭吉が、貞実、潔白、謙遜、律儀などの私徳と、廉恥、公平、正中、勇強などの公徳との違ひを示して、かう言つてゐるのを思ひ出します。
蓋し古来我国の人心に於て徳義と称するものは、専ら一人の私徳のみに名を下したる文字にて、其考の在る所を察するに、古書に温良恭謙譲と云ひ、無為にして治ると云ひ、聖人に夢なしと云ひ、君子盛徳の士は愚なるが如しと云ひ、仁者は山の如しと云ふなど、 都 て是等の趣を以て本旨と為し、結局、外に見はるゝ働よりも内に存するものを徳義と名 るのみにて、西洋の語にて云へば「パッシーウ」とて、我より働くには非ずして物に対して受身の姿と為り、唯私心を放解するの一事を以て要領と為すが如し。
(岩波文庫版 107ページ)
哲学の場合も、多くは個人を念頭に置いた存在論や認識論に終始してゐるやうに見受けられるのは、偏見でせうか。アランの場合は、哲学が社会との結びつきを失つてゐないところが私にとつて魅力の一つで、第七部では「儀式」といふ社会的な営みが扱はれるところにも、さうした視点が見て取れます。
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