冒頭の
芝居は 彌撒 と同じく、その効果をしかと感ずる爲には、屡々出向かねばならぬ。
といふ一節は、昭和11年に書かれた「演劇について」で引用されてゐます(第5次全集第4巻223ページ)。この文章の論旨は、
芝居を觀る喜びは、社會的な喜びである事を忘れてはならぬ。
といふアランの主張に呼応するものだと思はれます。
第2段落に、
芝居では、殊に音樂の無い芝居では、觀客が、純化した感動を舞臺に送り返す爲に、嚴格に規定された詩が必要である。
とあります。ご存じのやうに、フランスの古典劇では、セリフは韻を踏んだ詩で書かれてゐました。例へば、次の様に。
MADAME PERNELLE Allons. Flipote, allons, que d'eux je me délivre. ELMIRE Vous marchez d'un tel pas qu'on a peine à vous suivre. MADAME PERNELLE Laissez, ma bru, laissez, ne venez pas plus loin : Ce sont toutes façons dont je n'ai pas besoin. |
モリエールの「タルチュフ」の冒頭ですが、délivre と suivre、loin と besoinが韻を踏んでゐます。第2段落の末尾に、「眞の幕切れは、あらゆる臺詞の終りにある。」と書かれてゐますが、繰り返される音の効果だけではなく、韻を外さずに適切な言葉を当てはめる作家の腕によつても、観客は「解放から解放へと導かれる」のでせう。
細かくなりますが、翻訳についての注を幾つか。最初の段落の
瑣細 な物にも好奇の眼を向けねばならぬし、心が緊 め付けられる樣な場合でも、苦しい處まで行つてはならぬし
といふ部分は、細事への関心が、心が過度に締め付けられるのを防ぐ、といふのが原文の意味だと思はれます。なほ、中村雄二郎さんの訳では、「好奇心をもってはいけない」となつてゐますが、小林訳のやうに好奇心は必要なものだと読むのが正しいでせう。
この段落の末尾に「自認する注意」といふ語があります。原文は l’attention avouée で、本人が何に向けてゐるかを自ら認めてゐるやうな注意、といふ意味でせう。舞台ではなく、近くの席の美人を横目で観察してゐる男もゐるでせうが、それは「自認」してゐない注意です。
第2段落のはじめに「劔劇」といふ言葉があります。原文では luttes de cabale となつてをり cabale の争ひといふ意味になりますが、ウェブで参照できる仏語辞典 http://atilf.atilf.fr/ によれば cabale といふ語には「陰謀」とか「徒党」などといふ一般的な意味に加へて、「劇をぶち壊したり役者の演技を邪魔するために組織された一団」といふ特殊な意味があるやうです。
同じ段落の「特殊な細い事を氣にして
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