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第7章 演劇について

注釈へ

演劇はミサに似てゐる。その効果を正しく感じるためには、しばしば足を運ばねばならない。暫くゐるだけの者は、舞台でのある種の好い加減さに驚き、ある時は退屈し、ある時は余りに強く心を動かされるだらう。良い観客になるには、多分、良い役者になるのに負けないくらゐの時間が必要だらう。楽しみながら泣く術を知らねばならないのだから。これは驚きすぎてはできないし、細かな事への関心が無くてもできない。この関心が、心が痛くなるまで締め付けられるのを防ぐのだ。演劇の楽しみが、人が集まる場所での楽しみであることを忘れてはならない。劇場の配置そのもので、それを思ひ起こされる。観客が輪を作るやうな配置になつてをり、切れてゐるのは舞台の所だけだ。それは、お互ひに見ることができる、幾つもの小さなサロンだ。

ここで、公の場で生きるのが優れた道であり、礼儀を見守る人が多すぎることはない、といふ真理が明かされる。それぞれの客席での態度や仕草が規則に従ふのは、実際に、(他の)観客のためでもあるのだ。俳優は、特に並みの芝居やよく知られた出し物では、礼儀や服装について、さらに言へば美について教へてゐて、これは誰にも無駄にはならない。かうして誰もが演技をしてゐる。しかし、これを単純な嘘だと解してはならない。それは一方の端から他方へと送られる、真実の感情なのだ。ただ、複数の要素から成る、抑へられた、そして心地よい感情である。何故ならば、美しい様式は、自然にまかせてゐるとどんな小さな驚きでも拷問に変へる、情動の烈しい動きから解放して呉れるからだ。演劇では、臆病さといふものがないのだ、と付け加へよう。劇場においては、といふ意味だ。何故なら、いつでも黙ることは簡単で、表に出された注意の主な部分は、舞台が引き受けるのだから。

演劇には、特に伝染により、強い情動があるといふのは極めて正しい。それが熱狂にまで至り得るのは、喝采や非難の口笛、ぶち壊し屋の争ひで分かるとほりだ。私はここで、人の集まりではいつでも懸念される狂信の陶酔に気付く。そこで演劇では、特に音楽がない場合、厳しく定められた詩で、誰もが向かひの人に純化された情動を送るやうにすることが必要なのだ。演劇のマニアで、家ではたいてい怒りつぽい小心者がゐる。彼らが劇場に行くのは、情動を呼び起こしたり、保つたりするためではない。むしろ、それを鎮めるためだ。誰もが感動させられるのを喜ぶし、悲しい感動でもさうなのだ、と簡単に人は言ふ。言葉は何でも許す。しかし、心地良いのは解き放たれることなのだ。

ただ、不安が一番酷い苦しみであることを十分に理解しなければならない。また、智慧を持たない者は、烈しい発作が過ぎても、気付かずに不安を抱へてをり、どこでも落ち着かず、何よりも烈しい情動を恐れてゐて、すぐに心をさわがせることも、理解すべきだ。この病は退屈ではない。とは言へ、演劇はかうした不幸な人達を動かし、その状態を変へ、情動をすぐに鎮めて、一時の自由を与へる。次々と場面が現れて、自由を若返らせる。ここが演劇と読書の違ひだ。読むのは止められるが、劇は独自の速度で進む。ただ、それぞれの状況が次の状況を予告し、一瞬たりとも注意が逸れないことが必要だ。それは、より明確な音楽のやうだ。興味は、情動から情動へと、解放から解放へと導くためだけだ。また、職業上の技巧が、状況の自然さよりも遙かに重要だ。結末は殆ど重要性を持たない。それは蝋燭を消す一つのやり方でしかない。真の結末は、詩の一行ごとにある。

演劇で泣きすぎることがあるやうに、慣れてゐないと、笑ひすぎることもあり得る。笑ひは単に真似るだけで、理由が無くても、移るのだから。しかし、劇場に慣れた者は、より自由に笑ひ、そして続きを聞きたいといふ気持から、抑へて笑ふ。喜劇が笑ひによりさわぐ心を正すといふのは厳密に正しいが、事例や教訓によつて正すのではない。守銭奴を滑稽さで正すのではない。見世物に守銭奴はゐないのだから。さうではなく、全ての怒りや全ての不安、全ての心配を笑ひで癒すのだ。そして、難しいのは笑はせることではない。観客は皆、手助けをするのだから。さうではなく、笑つたことを受け入れさせるのが難しいのだ。より教養のある精神は、原因はそれほど気にしないで、サーカスの笑劇で一層よく笑ふだらう。そこでは観客の輪が閉ざされてゐるからだ。サーカスの道化には芸がないといふことではない。私はしばしば喜劇の最も深い技を発見した。観客が自分の姿をそこに見ないために、何でもする、顔を白く塗りさへする、といふことだ。モリエールもこの秘密を知つてゐた。


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