単純な知覚にもある種の筋道(方法méthode)があるのは、見たとほりだが、表には出ないもので、それにより各人が何かを告げる印を解釈する(解き明かす)道を見出す。足音や錠の音、煙、臭ひなどがその印で、物や距離を告げる影や見晴しは言ふまでもない。この知識は真の探究によつて得られる。それは常に、試みを繰り返し、偶発的なものを排除することにあるが、大概は、はつきりとした意思はなく、いつもの繋がりが残す、他より目立つ跡のやうなものによることさへしばしばだ。殆どが言葉よりも先に得られる、言葉を持たない知識で、生きている間ぢゆう完成度が高まる。
これには普段の仕事が大きく係る。船乗りは
職人の経験は真の科学により近いところまで導くやうに見える。特に、二つの好ましい状況、即ち形作られた客体と道具が出会ふ場合には。形作られた客体、例へば机は、その形自体と人が使つてきたことで、継続的で自然にうまく行く経験をする機会を与へる。そして、この客体は、すでにある種の抽象作用なのだ。だが道具は、これも形作られてゐて、さらに抽象的だ。その形は既に幾何学的、力学的な関係をかなり表はしてゐる。車、滑車、クランク、また
全ての仕事が同じやうに教へるのではないことを言つておくことが大切だ。ここでは、主な三つを見よう。まづ、職人の仕事だが、試したりやり直したりで、いつでも付随的な状況を取り去りながら進むので、やがて本当の経験的法則と決定論的な考へに行き着く。農業は、もつと手探りで、慎重である。何故なら、主な原因である雨、雪、雹、霜に働きかける事ができないので。だから農民の希望は職人の希望とは別物だ。そこには待つことと、多分祈りとがより多く混ざつてゐる。そこからより運命的で、空にその印を探す、より詩的な宗教が出て来る。第三の仕事の組は、動物の調教師だ。犬、馬、牛、象、これに私は、皮肉は抜きで、長、弁護士、判事の仕事を加へよう。説得と飼育はそれだけ似てゐるので。そして教育者も、特に小さな子供のは、この組に入りたがるだらう。ここでは進め方は盲滅法で、精神(esprit)は性質が多様なのに戸惑ふ。そして、効果や原因はいつでも深く隠されてゐる。しかしまた、進め方は、頑なさだけで、例へばある一つの言葉で、しばしば良いものと成る。ここでは多分、違ひ、驚き、気まぐれ、そしてこれも全く驚くべき成功により、まさに偶像崇拝的な考へが強まり、模倣、印、言葉の力により、魔術が力を増す。
精神は、自らの作品中に、その最初の真実と最初の誤りとを読んだに違ひないと言へよう。農民は天体の歩みと季節の廻りによく気づき、職人はより厳密な、特に幾何学的、力学的な関係を見出すが、多分、それは精神を枠にはめすぎるものでもあらう。そして最後に動物の調教師は成功により大胆になり、判断によつて、あるいは意思によつてと言つてもよからうが、相互には全く異質なものを一緒にするところまで行く。粗野な猟師が、低い声でも、追つてゐる動物の名を呼ぶことを望まないやうに。そして、この魔術の誤りは、ひるむことなく持ちつづけると、職人の明らかで確かな進め方よりも、精神の真の力をよりよく示すものだと、私は思ふ。何故なら、人はそんな風に、深淵に橋を架けながら考へるのだ。私は、その方が役に立つとさへ言はう。
Copyright (C) 2005-2007 吉原順之