観察する精神をあまりに宙に浮いて扱ふのを避けるために、三つの主な仕事といふ自然な考へに従つて、観察の方法にも三つあると言はう。思ふに、一番古く、一番普通なのが
人の秩序の中では、さらに家畜の輪の中でも、奇跡は熱い願ひと揺るがぬ望みから、刻々と生まれる。そして、この物理学(物の理り)は一番古く、ロビンソン・クルーソーにとつては別だが、全ての中で一番重要だといふことを忘れまい。また、誰にとつても最初のものだ。子供には願ひのほかに手に入れる手段はないのだから。そこから、味方と敵といふ人間的な秩序によつて素朴に築かれた多くの世界観が出てくる。この向かう見ずな考察は、全てを自分から引き出し、海が船を浮かべるやうに、全ての探求を支へる。デカルトは神に物理を探した。私が好んで悟性の王子と呼ぶこの人の横顔を、時間をとつて眺めて見給へ。そこに、力の備はつた素朴さを見るだらう。だが、然るべくデカルトを扱ふには、より良い準備が必要だ。ここでは、考へは願ひから生まれることだけを理解し給へ。
野心的な考へ pensée とは対照的なものとして、職人の考へを置かう。これは自分のすることしか観察しない。確かな方法であり、現代人の物理を支配してをり、ある意味ではそれを押し潰してゐる。何故なら、ここでは物しか問はれてゐない。そして、物は何を答へることができようか。論者達がはつきりと見たとほり、ただ否定するだけだ。反証するだけだ。機械、
かうして、純粋な観察という考へへと導かれる。最初に、空の景色にしか働く場を見つけられなかつたものだ。人はそこでは何も変へることができなかつたので。そこで人は、瞑想と静かな問ひかけにより、物についての考へ自体を形づくることを学んだ。意欲がなく、頑固さがなく、正しい感情がなかつた訳ではない。物はそれ自体何もできず、物の真実は、
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