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第5章 仮説と推測

注釈へ

読者の精神は、今や充分に準備され、法則に従つた悟性の型formesである仮説と、多少とも整へられた想像力の戯れである推測とを混同することは、もはやないであらう。判事が、ある被告は有罪であらうとか、窓から逃げたのであらうとか、この足跡は彼の物だらうとか思ふときには、推測してゐるにすぎない。だが、彼が力学に従ひ短刀の位置を殺人者の姿勢と結びつけるとすると、二つの残された物から一つの運動を再構築することで、ある種の仮説を立ててゐるのだ。と言ふのは、運動はいつでも精神により、いつでも再構成されるのだ。それは変化の形であり、感じられる変化が運動の中身matièreである。

だが、真の仮説は、この種の探究では稀だ。医者は、犠牲者を眠らせたのはクロロホルムだらうと思ふとき、推測をしてゐる。だが、彼が入れ替わる分子や神経へのクロロホルムの働きによつて、何らかの考へを組み立てるのだとすると、その場合には、真の仮説である。これから、推測はある存在を据ゑ、仮説はある本質を据ゑることが分かる。また、諸科学には余りに多くの推測が詰まつてゐることも分かる。一度しつかりと言つておかう。存在は据ゑらえるのでも仮定されるのでもなく、ただ確かめられるだけなのだ、と。ここを少しでも続けて思ひ返す者は、この時代に、最善の書物の中にも、混乱を見出すだらう。

ある仮説が真か偽かを問ふといふのは、円が存在するのかと問ふことだ。だが、存在するのは、この輪であり、それが円といふ型で捉へられ、また、あの天体で、それが楕円といふ型で捉へられ、その前に、球、赤道、子午線といふ型で定められるのだ。この考へを押し返したいと思ふ間は、マクスウェルの軸やベクトル、その輪郭や筒が、彼に同じやうな助けをもたらすのではないかを自分に問うてみ給へ。距離が、ずつと簡単に、遠近や視差の効果を説明するのと全く同じやうに。

力は、幾度も誤解されてゐるが、別の良い例を提供する。だが、力は、型の体系に結び付けねばならず、その外では意味を持たない。直線は石からではなく、点から出るのであり、野原ではなく平面を区切るのだから。減速も加速もされず曲げられもしない運動は殆ど無い。厳密には皆無だ。一様な運動は一つの考へidéeである、慣性だけによつて組み立てられる場合には。結びつきの無い運動であり、だからどこにも無いものだ。だが、悟性がそれを要素として据ゑる。力学における直線だ。そこから速度が定義され、これはまだ世界の何も掴まない。だが、辛抱を。

速度により速度の速度、あるいは加速度を定義することが出来、そこから、不変とされた質量について、等しい、異なる、計測可能な力が定義される。これで数多くの結び付けられた運動を掴むことが出来る。落下や引力において見られるやうに。だが、これらの型、あるいは同じ源の別の型が無ければ、実際の最も簡単な運動も捉へることができなくなるだらう。羊飼ひが、線引きや輪が無ければ天体の姿を決められないやうに。

今度は、この力を考へてみ給へ。常に二つの動体間の関係であり、物ではない。腕の中の努力でも、如何なる物の中の傾向や内なる緊張でも、全くない。これらの心像は、印刷された書物でも余りに普通にみられるのだが、物心崇拝であり、魔法の性質なのだ。石の重さは、その中にある落ちようとする性質であり、感情であり、さらには思ひpenséeであると言ふ時のやうに。これは野蛮人の考へpenséeである。

原子もまた、美しい仮説である。真の科学の体系の中では、何物にも内部は無く、塊も無く、ただ外部との関係があるだけだ、といふことを正しく表してゐる。大きさは原子には無縁だ。原子といふ考へにより、その内部には考へるべき何物も無い物体corpsが据ゑられただけだ。そこで、原子が存在するか自問してみ給へ。そして原子を見せてゐる人の許へ駆けて見に行き給へ。一緒に、子午線や赤道を見せて欲しいと言ひ給へ。


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