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第5章 幾何学について

注釈へ

幾何学は形の目録であり経験される客体の間の距離や大きさの関係を決めることを目指す。その法則は最も簡単な形から出発して次第に複雑にすることである。これは成功して、幾何学の問題で合同や相似の三角形により解けない問題はない。三角形は閉じた図形としては最も簡単なもので、直線が最も簡単な線であるのと同じである。また、直線の三軸の上で書き表せない曲線もない。それは先づ点と直線であり同時に距離と方向である。それから二つの運動が区別される。直線に沿つた運動と、ある固定された点の周りの直線の回転で、そこから角と円が出て来るが、これらは一つのものである。そこから出発して二つの系列の研究が発展する。一つは平面図形及び線と表面そして立体との関係に関するものであり、他方はサインやタンジェントのやうに角と適当に選ばれた直線との関係に関するものである。最後に征服されるのは曲線であり、円錐曲線がその主なものである。

知識がそれ自体の目的を持つと言ふのは、かなり古くからの先入観である。そして教育により多分避けられない効果なのだが、幾何学はその図形以外には何も求めない科学だといふやうに見えて来るだらう。そこで知識の客体は物自体より他にはなく、ある印象を手に入れる或いはそれを遠ざけるために我々がすべき動きを予測することを目指すのだ、と繰り返し言はねばならない。かうして幾何学は、方向付けや面積体積の算出を目的としその応用は科学全般に渉る。そしてコントが指摘したやうに我々がそこで用ゐる主な工夫はできるだけ線を測る事を少なくし角を多く測る事であり、これにより計算が大変になる。ともかく問題は物を実際の形に近づく直線と曲線の網目に閉ぢ込めることで、形といふのも実はこの網目があつてこそ形なのであるのは読者がすでに充分理解されたところだ。

この留意により人工的な障害をなくして今では古典的となつた公準の問題を扱ふことができる。論理そのものから、幾何学の推論は何らかの新しいものが曖昧さのない命題の形で与へられないと遠くまで行けないことが知られてゐる。それはいつでも新しい何らかの図形で、古い図形の組み合わせにより得られ同時に言葉で定義される。すでにこれで幾何学が客体無しで済ませるのではないことが充分に分かる。だが論者達はそれが無いと前に進めない公準あるいは要請を認めてゐる。知覚を充分に研究すると、この公準もまた定義である事が分かるやうになる。ただ紙の上に描かれた想像上の客体と精神のなかにある形とをしつかりと区別しなければならない。後者が言はば真の物であり真の幾何学者が扱ふのはこれだ。だから直線は一点から他の点へと常に向けられた動きとして一番うまく定義される。直線とは方向そのものである訳だ。

だが論者達はこれも直線に不可欠な最も短い距離といふものが要請される或いは公準とされることを望む。だが方向とは何かを考へて見よう。それは先づ我々と触れることの出来ない物との直接的な関係だ。ある期待だ。二つの点の間には一つの直線しかないといふことは想像や荒つぽい図形に騙されなければ定義自体の結果である。二つの直線を区別するためには少なくとも二つの中間点が必要だが、これは定義に反するからだ。何故なら関係は二つの点の間だけのものだから。二つの点を通る二つの直線は考へとしては一つにしかならない。問題は考へと描かれた物とを混同しないことだけだ。人が直線はある点から別の点への最も短い道だと付け加へるとすれば、多分言ひ方がまずい。世の中には望むだけ多くの道があるのだから。しかしある点から別の点には別のものを考へなければ一つの距離しかない。一つの直線しかないやうに。二点間の直線はニ点間の距離そのものであり、この距離は同じ向きで点を動かさないと短くはならない。或いはより短い距離は同じ直線の上の別の点を決める。これらの様々な距離はいつでも同じ直線の上でしか比べられない。かうしてもし別の距離の方が短いと分かればそれはある点を別の点に結ぶのではないといふ事でありそれ以外の意味はあり得ない。

だがこの直線の性質は、直線そのものと同じで、経験無くしては考へられないことに良く注意しよう。もし客体が無ければ、つまり感じられる多様性が無ければ、直線はもはや何物でもない。また幾何学者は充分な多様性で一番紛らはしくないのを採り、それぞれの点は慣例に従つた印により区別する。そして点それ自体が他の点とはただ距離によつて区別されるのだ。そのためには大きさや形に捕はれさへしなければ大きな染みでも小さな染みでも構はない。もしそれに拘ると一つではなく複数の客体を持つことになる。幾何学者はかうして意思によりその用語の意味を曖昧でなくし見かけと戦ふのだ。

唯一の直線が距離を定義するやうに唯一の平行線が回転を定義する。もし直線が世の中で探すものだつたとすればある点からある直線に平行な線は一つしかないのかと訊ねても良かつただらう。だが直線は据ゑられ保たれるのである。直線をある点の周りに回転させよう。別の直線と全ての可能な角度を取り角度零も含まれる。どうして人は角度零が例へば半直角よりも直線の位置の決め方が弱いと考へたがるのだらうか。そこで人は半直角では直線が二つ決まると言ふだらう。その通り。荒つぽい想像では二つあるが、適当な方向に角度を数へると二つではない。回転の量を曖昧さ無く記述しようとするとさうしなくてはならない。

では何故角度零の直線が幾つもあると言ひたがるのか。私は角度が零になると右と左で何が起こるか分からなくなるといふことが言ひたいのだ。これは諸君がどこまで旅してもその先だ。だが問題は旅ではない。諸君が言つたことに従ふ以外に何事も起こらない。軌跡と考へとを混同すまい。それに複数の平行線があるといふのを妨げるものは無い。それは試みられてユークリッドに反するこの幾何学の中には何の矛盾も見出されなかつた。私はきつとさうだらうと思ふ。語られること discours には人が置いたもの以外の矛盾はない。物は何も言わず矛盾だとも言はない。それにこの幾何学が掴む物を見つけるのであれば良いものなのだ。さうでなければ遊びでしかない。


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