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第9章 天才について

注釈へ

天才とは、軽やかな動き、考へ込むことも誤りもない、予測できない動きだ。多分これを理解するためには即興家を考へれば、そしてできることなら、整へられ過つことのない自由が舞台に登場するところを掴まへれば、十分だらう。この点では、少なくとも想像することで、音楽から学ぶところがあらう。美しい音楽にはとても自然で期待どほりな何かがあり、その音を聞く歌ひ手は他の物に振り向くまでもなく、その対象に告げられたものやそれに続くものを見出すだらうと私には思はれるのだから。しかしこの豊かな注意力は、自分を振り返へつたり、迷ひや思ひ込みがあつたりすると、得られない。ここでは予知することではなく為すことが問題なのだ。待つてゐては全てが変はる。延ばされた音は短い音とは別のことを告げるからだ。沈黙も同様だ。

将軍も同じやうに、助言や計画に従ふのではなく対象だけに従つて、その場で決断する。自由な作品とはさうしたものだからだ。同様に、画家にとつては、一筆は他の一筆に続き、作家には言葉が言葉に続く。ミケランジェロは大理石の固まりを見つめ、そこに彼のダビデを見、人の知る素早さで、槌の一振ごとに大理石から少しづつ出てくる像の他には何のモデルもなく、それを作つたのだらう。我々の画家や彫刻家の、モデルと作品といふ二つの対象を必要とするやり方は、かうした見方とはうまく合はないことは、認める。しかし、他の戦ひをモデルにして戦ひを指揮する将軍を考へることができるだらうか。作家については、韻律の規則がいつでもひらめきを促したことを指摘しよう。だがこれらの規則とは、注意をモデルから逸らして、作品へと戻すための手段でなくて、何だらう。散文については、何を言へば良いか分からない。とは言へ詩でないものが散文だとは思はない。散文は最後に生まれた芸術で、多分もつとも隠されたものだから。

ともかく、素描といふ芸術ではモデルに従ふのだが、素描そのものによつて素描を続けたり止めたりする動きがある。だから素描の最も得難い美しさは、似てゐることではないのだ。建築については、一番美しく同時に最も自然なもののことを言ふのだが、実行においてもすでに為されたものに多くの配慮がなされることがあり得るので、始めの所は、それに続くものによつて特に美しくなる。モリエールや特にシェークスピアの書き方も、これに反してはゐないだらう。そこでの美しさは主題にも、あらかじめ整へられたものの中にもなく、人が鑿の偶然と呼ぶところのものに、言はば自由な判断であると同時に動きであり、然るべく続けるものにあるのだから。この優美は、装飾や美しい家具にも見られ、その飾りは、必然性と自由とを一緒に示してゐる点で、音楽と似てゐる。

かうしたことから、天才から一番遠いのは、節度と自分を限ることにならう。特徴のある作品にはいつでも幾らかの気負ひがある。敢へてすれば、どれもが新しいのだから。だが敢へてするのは、単純さだ。かうして裸の判断が裸の対象に面と向かふ。すると対象が意識を満たし、主体は最早そこに自分を探さない。天才の中に巫女のひらめきや、機械的なもの、要するに物のやうな何かをさがすのではなく、正確な分析によつて以上のことを予測しなければならなかつたのだ。そして人が然るべく客体について考へ、同時に自分を考へることは無理だ。ペンの奴隷は、彼が作らうとする作品によつて自分を知らうとし過ぎる。しかし芸術家が自らを知るのは、作られた作品による他はない。そこで自分を限らない者は幸せだ。


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