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第8章 気の病ひ

注釈へ

ここの問題は、病気でもないのにさうだと思ひ込む人達ではない。そんな人は稀だ。気がかりな想像により、自分の病気を重くしてゐる人達のことなのだ。これは殆ど誰もがさうだ。また、病気になることを恐れることで病気になつてゐる人達のことだ。これも少なくない。この想像の力はよく知られてをり、その効果は詳しく研究されてゐる。しかし、その原因については、誰もが無知でゐようと努めてゐるやうだ。確かに、我々は自分の考へがどのやうに体の動きへと変はるのか知らないし、決して知ることはないだらう。ただ、体の動きがないと我々は決して考へを形作ることはないことは知つてゐる。この結びつきの中の一番普通なもの、つまり判断で我々は自分の筋肉を動かすといふことを考へるだけで、想像の効果の一番大きな部分を、多分全てを、説明したことになる。我々は小刀で、首を吊つて、あるいは崖から身を投げて、自分を殺すことが出来る。こらへた動きの力も、働きはゆつくりだが、それに劣らぬ程だ。

病人は揉んだり擦つたりで自分が治るのを助けることができる。れや怒りの動きで自分を害することもできる。これがまさしく、想像といふものの効果である。その空想のなかで、現にあるのは、それを生み出す体の動きだけだ。しかし、それ以外の動きも、眼には見えにくいのだが、健康には同じくらいの影響がある。呼吸の動きは、待ち構へ備へることにより常に、遅くなり、妨げられ、止められさへする。これは、力仕事の時はいつも、胸に空気を満たしておき、全ての筋肉がしつかりと効くやうにすることを要求する、我々の体の仕組みに因る。その上、筋肉は隣り合つたり、神経で結ばれてゐることで、互ひに刺激しあふので、自然にかうなる。しかし、誤つた判断が、しばしばそれに加わる。かなり長い坂道や大階段を登るときのやうに。そんな時、我々は一種の決心をするので、息がとどこほる。また心臓も、体の仕組みにより、反応する。この例から、恐れて待つことが、実際に生命力を弱めることが分かる。恐れにより息苦しくなるのだから、息が詰まるのではないかといふ恐れが、苦しみを増すのは分かる。飲んでゐて喉が詰まると、体全体に混乱した恐怖が生まれたやうになるが、試してみると分かるやうに、これは体操により治めることができる。羽虫が目に入つた時に、こすらないのと同様だ。

より重く進行が遅い病気では、自分を見張つてをり、徴候を待つてゐるが、治らうとする気持がうまく制御されてゐないので害になる。心配や、ただ自分に注意を払ふことだけでも、筋肉は縮まないではゐないし、それが栄養摂取や排泄を妨げる。死ぬのを恐れることが、生きるのを抑へるのだ。意志が直接には全く働きかけられない筋肉の系列がある。消化の動きを司るものがそれだ。しかし、これらの筋肉が、他の筋肉からの影響で、引きつつたり、痙攣したりすることが全然ないといふことはあり得ない。かうした無用の仕事により、血液の酸素が減り、汚れることも付け加えよう。表に出さない心配では体は動かない。しかし、激しい動きと同様に疲れる。かうした効果が、今度は印として働く。恐れの効果が恐れを増す。考へることが命の首を締める。

不眠は不思議な病気で、自分を責めるだけで起こることも多い。眠らないでゐること自体には、何も苦しいものは無い。自分のことを考へさへしなければ。しかし、心の騒いだ人は、眠りを休息のやうに待つてゐることが屢々だ。苦しい考へが無くても、眠れないことに驚き、気になることもある。待ちきれないで筋肉が固くなり、やがて動き出すので眠りが遠くなる。気にするといふのは目覚めることなのだから。なにかしようと思ふのは目覚めることなのだから。この苦しい戦ひの思ひ出は昼間も心を占め、夜は予言により酷いものになる。偏愛により、と言はうか。運命論の偶像が崇められてゐるのだから。私は、人から眠つてゐたことを証明されると気を悪くする病人に会つたことがある。治療法は、まづ不眠の原因を知ること、そして眠らうとする心配から自分を解放することだ。しかし、望めばすぐに眠り方を学ぶことができる。他のあらゆる動きを学ぶのと同じだ。まづ、動かずにゐるのだが、体を固くしたり強張こはばらせたりすることなく、全ての筋肉をしなやかに緩めて、体のどの部分も重力に従つて休めるやうにする。また、不愉快な思ひを持つてゐれば、それを遠ざける。これは考へられてゐるより易しい。しかし、正直に言ふと、それができると思はなければ、不可能だ。

憂鬱の番だ。ここで病的なのは、その悲しみだけだ。しかし、悲しみが現実の病であり、緩慢な窒息、人生の恐れから来る疲れだといふことを理解し給へ。正直に言へば、現実の不幸には事欠かず、遠からず、それを待ちかまへる者の言ふとほりになるだらう。しかし、それについて考へ過ぎると、その気がかりな体の中には、もう一つの確かで今ここにある具合悪さが、見つかる。この予感は悲しみを深め、さうして間もなく本当になる。それは地獄の扉だ。幸ひ、大多数は他の問題で注意をそらし、一人で暇にしてゐる時以外には、そこに戻らない。さうだと同意すれば人はいつでも悲しいのだと理解することは、これに対する治療法として小さなものではない。そこから、死にたいといふ気持が全ての悲しさ、全てのさわぐ心の底にあるのが分かる。死を恐れる気持も、それと逆ではないことも分かる。死ぬにはいくつかのやり方があり、一番よくあるのは、自分を見捨てることだ。運命論的な考へと結びついた、死ぬのではないかとの恐れが、我々のさわぐ心が膨らんだ姿であり、しばしばその最終的な効果である。考へ始めたらすぐに、死なない術を学ばねばならない。


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