『感想』をたどる(6~10)

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第六章

第六章は、長い章で、第五次全集で10ページ近くあります。ショーペンハウエルの美学に言及した後、ベルクソンの芸術論が展開された『笑ひ』へと話が進みます。現実を見るといふ芸術の働きを論じる過程で、『物質と記憶』に触れ、後半は「レアリテに於いて見るといふ事とイデアリテに於いて見るといふ事が現れてゐる」例として、『想像的進化』が取り上げられます。

『笑ひ』は、岩波文庫版の訳者の林達夫が解説で書いてゐるやうに、モリエールの喜劇を中心に論じたものです。従つてその言葉を借りれば「一種のモリエール論でもあり、フランス古典喜劇論でもある。『笑い』の読者はモリエールに通暁していなければならず、モリエールに興味をもつものはこの書を読むことによってモリエール的喜劇の方向とその喚起する笑いの源泉とについて深い理解をもつに至るであろう。」といふことになります。

『感想』との関係では、これに続けて、林達夫がかう書いてゐることも注目されます。

ベルクソンは、これまで纏った美学を書いていないから、この書はまた彼の美学的、いや、芸術学的見解を知るうえにも貴重な文献をなしているといえる。特にその第三章における芸術の本質を論じている箇所は、『意識の直接的与件についての論文』(『時間と自由』)第一章における美的感情を問題にした箇所と共にこの点で重要であることを注意しておこう。

なほ、ここで、「これまで纏った美学を書いていない」とあるのは、この訳本の初版が出された1938年には、ベルクソンが存命だつたからです。

脱線しますが、林達夫といふ人は恐るべき学者で、「改版へのあとがき」といふ副題の解説「ベルクソン以降」を読むと、その学識の広さ、深さに驚かされます。浅学の私は、エピグラフとして掲げられた「笑いはその正体が明かされるには、掛け値なしに一五〇頁の論文を要求し、それにその論文はアカデミーの文体ではなしに化学の文体で書かれなければならぬ。」といふスタンダールの引用に続いて、フロイトとベルクソンがそれから約七十年で、「いずれも二〇〇頁そこそこの」笑ひ論を書いた、と聞かされるだけで、感じ入つて仕舞ひます。

さて、『感想』では、『笑ひ』について、第九章から第十一章でも詳しく論じられてゐますが、第六章で引用されてゐるのは、林達夫の言ふ「第三章における芸術の本質を論じている箇所」です。(岩波文庫では139~145ページ)

これに続く「物は見ない、物の名を呼ぶ。」で始まる段落(第五次全集では50ページ~)では、『物質と記憶』にあるリボーの法則の解明について語られてゐます。『物質と記憶』の記述を縦横に引用してをり、また、ベルクソンは同様の表現を繰り返し用ゐる傾向があるので、どの部分が引用されてゐるのか正確に決めるのは困難です。

リボーの法則といふのは、物忘れが固有名詞、普通名詞、動詞といふ順に起こるといふもので、人の名前が思ひ出せなくなるといふのは、中年以降の皆さんにはお馴染みの現象ではないでせうか。ベルクソンは、この現象を、「記憶の障碍は、或る運動機構の障碍であり、記憶を、現在の行爲に接合する機能の衰弱であ」るといふ理論から説明してゐるのです。

『物質と記憶』への言及は、これだけで、「言葉のとばりは、殆ど信じ難いほど厚い。」で始まる段落から、話は『笑ひ』での芸術論へと戻り、

言葉そのものが創られた必 要の蔭に、物はれて了ふ。帳は、自然と私達との間ばかりではなく、私達と私達自身の意識の間にも、介在してゐる。有效な行爲に固着した生活地盤のうちで、私達は、物にしても外側に、私達自身にしても外側に生きる事に慣れ切つてゐる。詩人や藝術家とは、この帳が、薄くなり、透明になつた人達だ

といふベルクソンの基本的な考へ方が紹介されます。

この帳を上げて、現実そのものに直面するためには、「有用な習慣との或る斷絶」、あるいは「一種の生の非物質性」が必要になるとされ、ベルクソンは、これを、「イデアリスムが精神にある時、レアリスムは作品にあり、人が現實レアリテ接觸出來るのは、ひとへに觀念性イデアリテによるものだ」と表現してゐます。小林秀雄が、この表現について、

成る程、言ふところに、一見、少しも曖昧なところはない。だが、少し奥の方をのぞき込めば、忽ち彼の全哲學が顔を出すだらう。例へば、少しも言葉の意味を弄する事のないイデアリテとは何か、レアリテとは何か。それこそ、彼の全哲學の研究題目ではないか。又、例へば、感覺とか知覺とかいふさゝやかな言葉を取上げてみても、彼の綿密な觀察によつて、最も正確とされた意味合でしか使はれてはゐないのである。

と述べてゐるところに注目すべきでせう。

小林秀雄は、さうしたベルクソンの正確な表現の例として、『創造的進化』の「眼といふ器官の進化に關する觀察と意見」を取り上げるのですが、実際にこの部分に言及するのは第七章で、第六章では、『創造的進化』第一章「生命の進化について 機械性と目的性」の前半で論じられてゐる生命と機械論、目的論との関係について述べられてゐます。

ここでのベルクソンの主張は、小林秀雄が引用してゐない部分ですが、次の一節に示されてゐるのではないでせうか。

このように見てくると、変化の連続性、過去が現在に保存されること、本物の持続、生きものはどうもそうした属性を意識と共有するらしい。もっと踏み込んで、生命は意識活動と同様に、発明であり不断の創造であるとまでいえるであろうか。
(真方敬道訳『創造的進化』岩波文庫版 45ページ)

機械論も目的論も、全てがあらかじめ与へられてゐるといふ点では共通で、世界には根本的な新しさといふものはあり得ないことになるのですが、現実に我々の眼の前にあるのは、絶えざる創造だと言ふわけです。

第5次全集別巻Iでは55ページに「消耗的發生」といふ聞き慣れない言葉が出てきます。原文では catagenèse といふ語ですが、イタリックになつてをり、元々は Cope といふ学者の本からベルクソンが持つて来た言葉のやうです。岩波文庫版(58ページ)では「下向発生」と訳されてゐます。逆の「上向発生」は anagenèse で、小林秀雄は、この言葉を使つてゐませんが、「無機物中に存する劣等なエネルギーを同化し構成的な發生力と化し、生活の組織を構成する現象」がこれです。

同じページにある「レトルト」は、化学実験などで使はれる容器の名です。下記のサイトの図にあるやうに、先の尖つた口を持つガラス容器です。 http://www.bekkoame.ne.jp/~benzen/sozai/kigu/kigu.htm 

小林秀雄が、ベルクソンの言葉を借りて「組織學者や發生學者になれば、進んで言はばそのレトルトまで觀察の對象にしなければなるまい。」と言つてゐる部分は、科学の進んだ現在でも有効な考へ方ではないでせうか。例へば、遺伝子の塩基配列は解明されましたが、遺伝子の選択的な発現を説明するためには、遺伝子の配列だけでは足りず、細胞全体を考へる必要があることが明らかになりつつあると聞きます。


第七章

第七章では、第六章で予告されたやうに、ベルクソンの正確な表現の例として、『創造的進化』の「眼といふ器官の進化に關する觀察と意見」が取り上げられるのですが、その前に、小林秀雄は、生物の眼の進化に関するベルクソンの分析の元には、まづ直観があつたことに注意を促してゐます。

『形而上学入門』の文章を使ひながら、「直觀から分析への道は開けてゐるが、分析から直觀へ達する方法は一つもない」といふのが「ベルグソンの思想の根本にある考へである」ことを示し、物の運動を外から眺める場合には、認識は相対的なものに止まるが、想像力によりその物の中に入り込めば、絶対的な認識が得られる、と述べてゐます。

かう書いて仕舞ふと、「もう、解つた、君の思想は直觀派の思想だ、といふ讀者の」が聞こえて来さうです。そこで、『形而上学入門』の中で、ベルクソンが自らの方法論の原理を述べた部分から、いくつか引用を付け加へて置きませう。

外的ではあるが直接われわれの精神に与えられている事象がある。
この事象は動きである。実在するのは、できあがっている物ではなく、ただできていく物であり、維持される状態ではなく、ただ変化する状態である。
われわれの悟性は、その自然な傾きに従う際には、一方では固体的な知覚、他方では安定的な概念によってはたらく。
われわれの思考によって動きのある事象から固定した概念を抽き出せるということはわかるが、固定した概念をもって動きのある事象的なものを元どおり構成する方法は一つもない。
哲学することとは思考の仕事の習慣的な方向を逆転することである。

以上の引用は、河野与一訳『思想と動くもの』岩波文庫版の292~296ページから抜き出したものです。同版では、論文の題名は『形而上学入門』ではなく『哲学入門』となつてゐます。

また、ここで「事象」と訳されてゐる言葉は réalité ですが、ベルクソンの時代のこの言葉を「事象(性)」と訳すことには問題があり得ることを、この訳書に付された解説のなかで木田元さんが述べてをられます。ここでも、「実在」または「現実」と訳した方が解りやすいかも知れません。

小林秀雄の文章に戻つて、第七章の最初の長い段落の終りあたり、第五次全集では61ページの末に、「彼の否定の裏には、生氣のない知識と化して了つた生物學上の概念や定義を、ダーウィンやラマルクの持つてゐたに相違ない直觀まで連れ戻さうとする努力がれてゐるとさへ言へる。」といふ文があります。これは岩波文庫版では298ページあたりの記述を踏まへたものだと思はれますが、ベルクソンは、この部分での「直観」といふ言葉の使ひ方について、注を付してゐます。その一部をご紹介しませう。

この言葉で、思考の哲学的なはたらき、主として精神による精神の直接の認識、副次的には物質のうちにある本質的なところを精神によつて認識するはたらきを指すことにしている。
(河野与一訳『思想と動くもの』岩波文庫 409ページ)

小林秀雄が言ふ「ダーウィンやラマルクの持つてゐたに相違ない直觀」は、後者の副次的な意味で使はれてゐるのです。同じ注でベルクソンは、続けて以下のやうに書いてゐます。

その後私は次第に正確を期するために、悟性作用と直観、科学と哲学をもっとはっきり区別しなければならなくなる。

つまり、1902年の『形而上学入門』では、二つの意味で直観といふ言葉を使つてゐたが、1911年の『哲学的直観』や1922年の『序論 II』では、「精神による精神の直接の認識」といふ主な意味に絞つて直観といふ言葉を使ふやうになつたといふ訳です。

小林秀雄は「一貫して目指されゐるのは、直觀のうちにあつての生物學者と哲學者との握手である。」と言ふのですが、直観といふ言葉を、上記の主な意味に絞つて使ふ場合には、科学と哲学との違ひが強調されるので、混乱が生じる恐れがあるかと思ひ、ベルクソン自身の注をご紹介しました。

第七章の最初の長い段落の最後に、小林秀雄は、かう書いてゐます。

ベルグソンによつて吟味された、當時の生物學家の最新知識の上に、今日、どの樣な最新知識が附加されようと、彼によつて、一たん開かれた道を閉ざす力はない。直觀は、定義上、これに何かを附加する事は出來ない。
(第五次全集、62ページ)

この文章は、難解です。「彼によつて、一たん開かれた道」とは何を指すのか。「直觀は、定義上、これに何かを附加する事は出來ない。」といふ時、小林秀雄は、どのやうな直観を念頭においてゐたのか。どなたか、これらの疑問に答へて頂けると、大変うれしいのですが、いづれにしても、現代の読者としては、ベルクソンの議論が、最新の生物学の知識に照らして、有効性を保つてゐるのかを考へざるを得ません。

第七章の第二段落から、第九章の前半まで、『創造的進化』の眼に関する分析について述べられます。第七章で取り上げられるのは、岩波文庫から出てゐる真方敬道氏による翻訳の81ページから91ページあたりの記述です。これはベルクソンが、進化は機械的なものか、あるいは何か目的性を持つものなのか、を論じてゐる部分で、人間と帆立貝の眼の比較をする狙ひを、次のやうに述べてゐます。

生命はさまざまな向きの進化の線上に似もつかぬ手段である種のおなじ器官を製作するものだ、ということがかりに確立できれば、純粋な機械論は論破されうるものとなり、また目的性も、私の解する特殊な意味でならば、ある面で立証できることになろう。なおその立証力は、私のえらんだ進化の諸線の開きかげんや、その線上に見られる相似な構造体のこみいりぐあいに比例することであろう。
(真方敬道訳『創造的進化』岩波文庫、81ページ)

ここで述べられたベルクソンの主張が、現在の生物学の知識によつても、支持されるものかどうかは、疑問です。例へばリチャード・ドーキンスの『盲目の時計職人』では、自然の中で似たやうな構造を持つ器官の例がいくつも見られるといふ同じ現象を取り上げて、これは、進化によつて複雑な構造を持つ器官が作られ得ることの証左である、といふ全く逆の解釈をしてゐます。

(但し、ドーキンスの意見が全て正しいとも思はれません。特に、彼自身が自分の立場だと述べてゐる「階層的還元主義」といふ考へ方は、 homo faber として存在することで人間の思考が持つてゐる偏りだとベルクソンが指摘してゐるものの典型的な例だと言へるでせう。)

また、これは私見ですが、人間の眼と帆立貝の眼の構造が細かな点まで似てゐることについては、見るといふ基本的な機能は同じであり、それを実現するための構造も似たものになること、遠くは同じ祖先から進化した人間と帆立貝が持つてゐる眼の材料は、似た性質を持つものであり、それを用ゐて実現される構造も似たものになること、などからも説明が可能だと思はれます。

小林秀雄が、第五次全集では63ページ以降で整理してゐる有性生殖が利益か不利益か分からないといふ議論も、遺伝子を交換することで多様性を実現することにより、環境への適応性を高めるといふ意味で、動物にも植物にも、利益になり得ることは、多くの人が認めるところでせう。

さらに、ベルクソンはダーウィンの進化論を狭く考へ過ぎてゐるといふ気がします。小林秀雄の文章で言へば、次の部分にそれが現れてゐます。

逃れる道は、この小變異は、有機が、將來の建設の爲に据ゑた待ち石の如きものであると考へる事だ。單なる物の譬へではない。淘汰の假説が、其處で坐礁するなら、説明の爲に採らざるを得ない絶對的な假説である。ダーウィンは、自ら立てた原則を踏みにじる。
(第五次全集、65ページ)

ベルクソン自身の言葉では、かうなつてゐます。

目に見えぬ変異が眼の機能を妨げないのなら、補いの変異が生じない限りそれはまして眼の機能を助けはしない。すると、どうしてその変異は淘汰のはたらきで保存されるのか。
(真方敬道訳『創造的進化』岩波文庫、92ページ)

しかし、淘汰されるのは、機能の妨げられた個体であり、機能が同じ程度であれば、子孫を残す確率には変はりがないのですから、「將來の建設の爲に据ゑた待ち石」は、十分に有り得ると思はれます。この場合、「待ち石」が誰かによつて意図的に置かれたものでないことは、勿論です。その後に生じる、補完的な変異により、高い機能や新しい機能を持つことで、それが結果的に生かされることになるので、「待ち石」である最初の変異の時点では、その効果は誰にも分からないのです。

ベルクソンがこのやうな勇み足とも言ふべき論を成したのは、ダーウィンの進化論を機械論の一例として取り上げてゐること、機械論では説明できないものについての強い意識を持つてゐたこと、などに起因するものでせう。部分から全体を説明するといふ還元論の考へ方では生物をうまく捉へられないといふベルクソンの問題意識は、現代でも有効性を保つてゐると思ひますが、この論点は小林秀雄が第八章で扱ふ部分に、よく表れてゐると思ひます。


第八章

第八章では、前章に引き続いて『創造的進化』の文章を引用しながら、眼といふ複雑な構造の出現が機械的な考へ方で説明できないことについて述べられます。真方敬道訳の岩波文庫版では、97ページから122ページの部分です。この章では、殆ど全ての文章が『創造的進化』からの引用や要約から成つてゐると言つても過言ではありません。勿論、文章は、内容ではなく形式も重要です。たとへ似たやうな表現を使つてはゐても、小林秀雄の文章の調子は、ベルクソンの文章とは大きく異なるものです。

さて、第七章までの部分で、偶然な内的原因では複雑な器官の出現が説明できないことが示されたとして、第八章の前半では、外部環境の直接な影響で説明できないかが検討されます。結論については、当然のものかも知れませんが、興味深いのは、それに至る道筋です。

例へば、第五次全集では68ページにある「原因」といふ言葉についての議論です。生物学者がこの言葉を使ふときに、知らず知らず、この言葉が持つ異なる意味の間を行き来してゐるといふ指摘は、抽象的な言葉による議論の危険性を示した、鮮やかな分析だと思ひます。

後半では、見るといふ単純な働きと眼といふ器官の複雑さとの対照から、単純さが事物そのものであり、複雑さは我々の感覚や悟性に由来するものであることが述べられます。

私達は、「自然は人間の如く、部分部分をとり集めて全體を作る働きをしてゐるといふ考へ」から逃れることができないが、「生命は、要素の集合や累加によつて發達しない、分離と分割とによつて發達する」といふ指摘は、物理化学的な分析を中心とする生物学に欠けてゐるものを示唆する、大変重要なものだと思ひます。

多細胞の動物でも、多くの場合、子孫を残すためには、一度、受精卵といふ一個の細胞に戻り、それが分割を繰り返して成長するといふ迂路をたどる必要があるのですが、この事実には、分離と分割によつて成長するといふ生命の特質と結びついた、何か本質的な理由があると思はれます。

小林秀雄は、ベルクソンの言葉を借りつつ、そのあたりの事情を次のやうに表現してゐます。

有機化の働きは、何か爆發の樣なもので、その出發に際して必要な場所も材料も、出來る限り小さなものでなければならない。まるで、有機化の力は、いやいやながら、空間に這入つて來たとでもいふ樣な樣子をしてゐる。

第九章

第六章から始まつた『創造的進化』についての議論は、この第九章の前半、第五段落で締めくくられます。小林秀雄は、第四段落で「ここで、ベルグソンは、有名な「生命のはずみ」 (l'élan vital) といふ言葉を使ふ。」と書いてゐます。 (第五次全集、77ページ末から。)(脚注)

「生命のはずみ」とは何か、なぜ機械論を否定するのか、といふ点については、小林秀雄は直接言及してゐませんが、以下の部分にベルクソンの考へがよく現れてゐるのではないでせうか。

進化の必要条件が環境への適応であることについては私になんの異存もない。種は自分にあてがわれた生存条件に折れて出ないなら消滅することはみえすいている。けれども、外部環境は進化が念頭におかねばならぬ勢力だとみとめるのと、それを進化の主導原因だと主張するのとは同じでない。後者は機械論の主張である。それは根源のはずみの仮説、すなわち生命にいよいよ複雑な形態をとらせながらいよいよ高い使命にそれをつれてゆくある内的衝力を仮定する私の考えを頭からしりぞける。それにもかかわらずこのはずみは歴然としている。化石種を一目みれば私たちに明らかなように、生命は原始的な形態のなかで関節不随になるという自分にとってはるかに楽な道を選んだなら、進化などしないかあるいはごくせまい範囲内の進化ですんだのであった。
(真方敬道訳『創造的進化』岩波文庫、132ページ)

ドーキンスであれば、そこに「根源のはずみ」を考へる必要などなく、様々な原因による遺伝子の確率的な変化と、環境(それには外敵や獲物との関係も含まれますが)との相互作用の結果で、より高度な生物が生まれることは十分に説明できる、と言ふでせう。遺伝子の変化は確率的に起きる現象で、特定の方向は持たないが、変化が保存され、ある環境の下では、特定の性質を持つものが多く子孫を残すことで、一定の進化が生じるのだと主張するはずです。

しかし、進化といふ現象の個別の現れを、環境から説明することは可能だとしても、そもそも何故、生物は現状を維持することに満足しないで、進化といふ一種の努力をするのか。そこには、何か生きようとする、生き延びようとする精神的な力のやうなものが働いてゐるのではないか。ベルクソンの主張は、そんな考へに基づいてゐるやうに思はれます。

第四段落の終はり、第五次全集では78ページの半ばまでが『創造的進化』からの引用を中心に構成されてをり、第五段落は、小林秀雄自身の言葉で語られてゐます。

て、こゝまで來れば、ベルグソンが、見るといふ事に附した二重の意味は、もはや明らかであらう。

第五段落の冒頭のこの文は、第六章で、『創造的進化』からの文章の引用を始める前に書かれた、次の文に呼応してゐるものでせう。

ベルグソンはさういふ言葉は使つてゐないが、人間の眼は、言葉を弄する事なく肉眼と心眼との複眼だと言へる、さういふ趣が現れてゐると考へるからである。
(第五次全集54ページ)

「ベルグソンの努めたところは、ヴィジョンといふ言葉に、その全幅な意味合を囘復する事であつた。」といふ部分は、第四章、第五章で取り上げられた『思想と動くもの』のなかで語られるヴィジョンといふ言葉を念頭においたものだと思はれます。例へば、次の文章にある「ヴィジョン」です。

だから、ベルグソンは、直觀といふ言葉を、いろいろな意味に使ふであらうが、持續のうちで考へるといふ事を、その基本的な意味としたい、と言ふ。彼の言ふ直觀とは、認識の一種といふよりむしろ、前に引用した「ラヴェソン論」の中にもある樣に、哲學者に要求された視覺ヴィジョンの一種なのである。
(第五次全集41ページ)

第九章の後半、第六段落からは、『笑ひ』に話が戻ります。『創造的進化』とは直接的な結びつきを持たない話題で、突飛な印象を持ちますが、敢へて関連をつけるとすれば、結果としての肉眼を分析するのではなく、肉眼が創り出された所以のものへの直観を求めたやうに、笑ひの形式的な定義ではなく、をかしさを作り出す手段に注目するといふ、言はば動的な分析である点が、両者に共通だと言へるかも知れません。

もし定義や定式の中に、笑ひを閉ぢ込めようとすれば、忽ちモリエールに捉へられる、と、ベルグソンは、よく承知してゐるからだ。
(第五次全集79ページ)

この第六段落は、文中にもあるやうに、『笑ひ』の序文と後記を踏まへて書かれてゐます。また、最後の二つの段落は、をかしみ一般、形のをかしみと動きのをかしみ、をかしみの膨張力について述べた、『笑ひ』第一章が念頭に置かれてゐます。いづれも、『笑ひ』の文章を引用してゐるといふよりも、ベルクソンの文章の断片が、小林秀雄自身の文章の中に(ちりば)められてゐるといつた風情のものです。

小林秀雄はベルクソンが笑ひを分析するやり方を音楽の基本テーマとヴァリエーションに譬へてゐますが、これも、形式的、論理的で固定された定義ではなく、強張りといふ単純なテーマが様々に展開されるといふ動的な分析であるところが重要だと思はれます。

性急な理論的定義は用をなすまい。用をなさないばかりではなく、それは、をかしさといふ一種の生き物に貼附された一種機械的なものであつて、笑ひの種となるだらう。
(第五次全集82ページ)

第十章

『感想』で『笑ひ』を中心的に論じてゐるのは、第九章の後半から第十一章です。『笑ひ』は、その序文でも述べられてゐるやうに、ベルクソンが『パリ評論』に発表した三つの論文を基礎としてをり、三章構成となつてゐます。小林秀雄は、このうち、第一章「おかしみ一般 形のおかしみ 運動のおかしみ おかしみの膨張力」と第三章「性格のおかしみ」を取り上げてゐて、第二章「状況のおかしみと言葉のおかしみ」からの引用はありません。この章は九つの段落から成りますが、前半、第五段落の途中までが『笑ひ』第一章からの引用を中心に構成され、後半は第三章からの引用が核となつてゐます。

第一段落を詳しく辿つてみませう。この段落は、岩波文庫版の訳では、29~30ページに対応した部分です。次のやうな文章が見つかります。

大事なのは、たゞ對象を見る事なのである。美しくないと言へるものでもない、醜いと言へるものでもない、たゞもう不恰好なもの、畸形なものの樣々の形を見てみよう。
ベルクソンが、繰返し忠告するのは、一つの事である。せむしが、諸君の前を通る、たゞ眼だけを使つて、眺め給へ、反省してはいけない、特に推理などしないで置き給へ、先入觀を抹殺し給へ、直接な印象だけを求め給へ、さうして得られるヴィジョンを吟味すれば、それは、強張つて、ある姿にならうとしてゐる人間、言つてみれば、顔をしかめる樣に、身體をしかめてゐる人間、まさにさういふヴィジョンであらう。

ここで小林秀雄がベルクソンの口を借りて述べてゐるのは、理屈でものを見るのではなく、先づ、感じ取ることが重要だといふ考へ方です。それも「見る」、「直接な印象だけを求め」る、といふやうに、言はば、純粋な感受性の働きが強調されてゐます。

小林秀雄が、昭和6年に書いた「文藝批評の科學性に關する論爭」の一節が思ひ出されます。

一體、主觀とか客觀とかいふ言葉も無我夢中で使はれてゐる言葉中の王樣です。われわれが作品を前にして、われわれの裡(うち)に起る全反應、或は生理的全過程を冷然と眺めるのが何が主觀的なのですか。それは純然たる客觀物です。藝術鑑賞にある程度の修練をつんだ人なら、誰でも自分の印象の一系列を客觀物として眺めてをります。
(第五次全集 第二巻 67頁)

反省や推理ではなく、先づ、直かな印象を重んじること、これが、文芸批評家として出発した頃からの、小林秀雄の一貫した方法であると思はれます。特に、人間の心の問題を扱ふのには、かうした方法が不可欠だと考へてゐたのではないでせうか。そして、これが独り善がりではないと述べてゐる点にも留意すべきでせう。

この段落は、さうした小林秀雄の核となる信念を披瀝したかとも見えるものなのですが、その大部分は、『笑ひ』にあるベルクソンの文章を使つて書かれてゐるのです。下に『感想』と『笑ひ』の該当部分を比較した表を載せておきますので、ご参照下さい。小林秀雄とベルクソンとの共通性、あるいは前者が後者に負ふものの大きさが感じられると思ひます。

『感想』 第十章 第一段落

何故、ひよつとこ面が、をかしいか。せむしが、をかしいか。こんな簡單な問題にも、人々が手を燒かねばならないといふのも、滑稽と醜とを區別するものは何であるか、醜に何を附加したら滑稽となるか、といふ風に、問題に正面から取組まうとするからである。醜を定義するのは、美を定義するよりは易しいとでも言ふのであらうか。大事なのは、たゞ對象を見る事なのである。美しくないと言へるものでもない、醜いと言へるものでもない、たゞもう不恰好なもの、畸形なものの樣々の形を見てみよう。或不恰好な形は、笑ひを挑發する特權を持ち、他の不恰好な形は、笑ひを拒絶してゐる、といふ工合に、不恰好は、二種の姿に、自ら分れて行くのを感ずるであらう。ベルグソンが、繰返し忠告するのは、一つの事である。せむしが、諸君の前を通る、たゞ眼だけを使つて、眺め給へ、反省してはいけない、特に推理などしないで置き給へ、先入觀を抹殺し給へ、直接な印象だけを求め給へ、さうして得られるヴィジョンを吟味すれば、それは、強張つて、ある姿にならうとしてゐる人間、言つてみれば、顔をしかめる樣に、身體をしかめてゐる人間、まさにさういふヴィジョンであらう。この種の實驗を重ねてゐると、まともな恰好をした人間が、眞似してみせる事の出來る不恰好は、滑稽になる事が出來るといふ法則に導かれるであらう。

『笑い』 第一章 三 第一~第三段落

いちばん単純なものから始めよう。滑稽な顔つきとは何であるか。顔のおかしな表情はどこからくるか。ここで、滑稽を醜から区別するものは何であるか。かように提起されたこの問題は、これまで思い思いの解決しか得られなかった。どんなに単純に見えても、この問題は正面から近づこうとするには、既にあまりに捕捉し難い問題である。まず醜ということから定義してかかり、それから滑稽がこれに何を附け加えるかを究めなければならぬであろう。ところで醜を分析することが美を分析するよりもずっとやさしいというわけにはいかぬ。だが、我々はこれからしばしば我々に力をす或る細工を試みてゆこう。原因が明らかに見えるくらいまでに結果を拡大して、いってみれば問題を肥大化させてみよう。そこで醜を加重してみよう。それを不恰好となるくらいまでに押し進めてみよう。そしてどうして不恰好なものからおかしなものに移るかを見てみよう。
或る不恰好が他の不恰好よりも或る場合、笑いを喚び起こしうる悲しむべき特権をもっているということは争われぬ。細かい点に立ち入るまでもない。ただ種々の不恰好を吟味してみて、次に、一方には自然がおかしみの方に方向をもっているものと、他方には絶対におかしみとは隔離しているものと、二通りのグループにそれらを分類することを読者にお願いしておこう。我々はそれが次の法則を引き出すことになるであろうと考える。まともな恰好をした人間が真似することのできる不恰好はすべて滑稽になることができる。
すると傴僂せむしはまともに身を持していられない人間の効果を与えないであろうか。その背は厭な皺を作ったのだったかもしれぬ。物質の強情っぱりによって、こわばりによって、一度身についた習慣をそのまま捨てないでいるのかもしれぬ。ただ諸君の目だけで眺めるようにつとめてみたまえ。反省しないでおきたまえ、そしてとりわけ推理しないでおきたまえ。既得のものを抹殺したまえ。素朴な直接なずばりそのままの印象を求めるようにしてみたまえ。そうすれば諸君が再把握するのは、まさしくこの種のヴィジョンである。諸君は諸君の前に、こわばって或る姿勢になろうとしている男を、そして、もしそう言いうるなら、自分のからだをしかめようとしている男をもつであろう。

<注>
  • 下線部は、『感想』に、ほぼ同一の文が見られる部分。
  • ゴチックの部分は、原文では傍点。

しかし、論理的な頭の動きを抑へて物を直かに見る、といふ方法論を知るだけでは無意味でせう。その方法でベルクソンが何を見付けたか、その発見をどのやうに表現したか、それを追つてみなければ、現実の豊かさや、これに迫るベルクソンの個性的な動きを知ることはできません。

さうした例として、小林秀雄は、「表情的な顔を笑ふ事は出來ない」といふ事実から、「私達が、優美と呼ぶところには、必ず、物質の中に入りこむ非物質性のヴィジョンがある。」といふ指摘へと進むベルクソンの議論や、「よく似た二つの顔は、別々に眺めれば、少しもをかしくないのだが、並べて見ると、似てゐるといふので、をかしくなる」といふ、パスカルの謎が、ベルクソンのこの考へ方を応用すれば、きれいに解けることなどを紹介してゐます。この辺りのベルクソンの分析は見事で、まだお読みでない方には、是非、ご一読をお勧めします。『笑ひ』は、岩波文庫で200ページほどの、小さな本ですので、是非、全文に当たつてみて頂ければと思ひます。

さて、上に一部を引用しましたが、第二段落には、次のやうな一節があります。

心は、重力の作用も受けず、輕く、しなやかに、止まる事を知らず動いてゐるのだが、この心の翼のはばたきが、肉體はり、肉體は活氣づく。私達が、優美と呼ぶところには、必ず、物質の中に入りこむ非物質性のヴィジョンがある。

ここで小林秀雄が紹介してゐるベルクソンの文章は、岩波文庫の林達夫訳では、34ページにありますが、単なる比喩ではなく、『物質と記憶』や『創造的進化』で述べられた、精神と物質の関係についてのベルクソンの見方を、笑ひといふ事象に例を取りながら、改めて説いたものだと考へるべきでせう。心は、脳の働きによつて生まれる随伴現象ではなく、明確な実体性を持つ、とする二元論の見方です。

また、第三段落から、第四段落にかけて、ベルクソンの演繹が、一直線に進むのではなく、ルーレットの曲線を描くやうに進むことが、これもベルクソン自身の言葉を使ひながら、述べられてゐます。単なる論理の展開ではなく、要所、要所で、立ち止まり、次の道を探るといふ、かうした考への進め方を、小林秀雄は「基本和聲の動揺と發展」といふ音楽の言葉で説明してゐるのですが、別の見方をすれば、生物の進化に似てゐると言へるかもしれません。思考自身が、一歩先に進まうと努力してゐる生き物のやうに思はれないでせうか。

第五段落からは、笑ひの社会的な性格について述べられます。この段落のはじめに書かれてゐるやうに、ベルクソンは『笑ひ』の第一章で、笑ひ一般を論じた際に、その社会的な性格を指摘してゐたのですが、小林秀雄は、この段落以降にまとめて論じてゐます。

ここから第十一章の途中まで続く議論は、『笑ひ』の第三章「性格のおかしみ」からのものが中心になつてゐます。岩波文庫版の解説で、林達夫は、この訳本を贈られた木下杢太郎が「その引用して思索の材料にした古典文学」についての知識がなかつたので、むづかしくて参つたといふ感想を漏らした旨、書いてゐますが、逆に言へば、モリエールの劇に通じてをられる方々には、この書物は一層の楽しみをもたらすのでせう。


《脚注》

  1. 「生命のはずみ」といふ言葉が書かれてゐるところ

    真方敬道氏による岩波文庫版の訳を読むと、この前後には「生命の根源のはずみ」といふ言ひ方はありますが、「生命のはずみ」といふ言葉そのものは見当たりません。実は、原語の本では、このページの上端に「生命のはずみ」といふ小見出しが付いてゐるのです。真方敬道氏の訳では、目次の小見出しは訳されてゐますが、本文の小見出しは省略されてをり、訳本の4ページに、その旨、書かれてゐます。小見出しではなく、「柱」といふ表現になつてゐますが。

    ベルクソンの他の本も、同様の体裁になつてゐて、欄外に小見出しがついてゐるのですが、これは、訳本によつて訳されてゐたり、ゐなかつたりします。例へば、河野与一氏訳の岩波文庫版『思想と動くもの』では、訳されてゐません。緒論の第一部、第二部では、はじめに小見出しのやうなものが纏めて訳されてゐますが、これは、原本でも同様になつてをり、原本ではそれに加へて、各ページの上に、その章の題名と小見出しとが交互に書かれてゐるのです。

    岩波文庫でも、中村文郎氏による『時間と自由』の訳では、小見出しが訳されてをり、原本では章の題名だけとなつてゐる目次にも付け加へられてゐます。

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