ホーム >  小林訳注釈 目次 >  第6部 目次 >  第6章

第6章 再び正義(つゞき)

翻訳へ

正義といふ題目でアランは三つの章を書いてゐますが、いづれも 経済的な平等が話題とされてゐます。これはこの文章が書かれた 20世紀初頭の欧州の社会情勢を反映したものでせう。日本でも 「正義の味方」と言へば、悪代官を懲らしめる水戸黄門などがゐ ますが、どうも社会全体を視野に入れた、経済面での善悪の議論 までは至らないやうな気がします。

『文明論之概略』で福沢諭吉が、貞実、潔白、謙遜、律儀などの 私徳と、廉恥、公平、正中、勇強などの公徳との違ひを示して、 かう言つてゐるのを思ひ出します。

蓋し古来我国の人心に於て徳義と称するものは、専ら一人の私 徳のみに名を下したる文字にて、其考の在る所を察するに、古書 に温良恭謙譲と云ひ、無為にして治ると云ひ、聖人に夢なしと云 ひ、君子盛徳の士は愚なるが如しと云ひ、仁者は山の如しと云ふ など、すべて是等の趣を以て本旨と為し、結局、外に見は るゝ働よりも内に存するものを徳義となづくるのみにて、 西洋の語にて云へば「パッシーウ」とて、我より働くには非ずし て物に対して受身の姿と為り、唯私心を放解するの一事を以て要 領と為すが如し。
(岩波文庫版 107ページ)

哲学の場合も、多くは個人を念頭に置いた存在論や認識論に終始 してゐるやうに見受けられるのは、偏見でせうか。アランの場合 は、哲学が社会との結びつきを失つてゐないところが私にとつて 魅力の一つで、第七部では「儀式」といふ社会的な営みが扱はれ るところにも、さうした視点が見て取れます。


第5章 < 第6章 > 第7章

ホーム >  小林訳注釈 目次 >  第6部 目次 >  第6章

Copyright (C) 2005-2006 吉原順之