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第8章 原因

注釈へ

あれこれ詰め込み過ぎた問題で、曖昧な言葉だ。人は原因といふ言葉で、 ある時は、歴史や犯罪裁判における場合のやうに、人を意味し、ある時は 物を指す。それが人の場合には、それが原因だといふのは、その人物が何かを 始め、後でその責任を負ふといふ意味であり、それは確かに最初の原因を 指してゐて、自由意思といふ名の下に扱はれる。

それが物又は物の状態で、 それに続く別の物を決めるのであれば、逆に、この物又は物の状態は、 それ自身が先立つ状態により決められ、全ての原因が結果であり全ての結果が 原因でもあるといふ意味だ。例へば、火薬の線で、それぞれの粒が燃えて その次が燃え出す原因となるといふやうに。これは、言はれるやうに、 二次的な原因である。この二種類の原因は、主体と客体、あるいは精神と 物のやうに、区別される。

ところが、呪物崇拝は、いつでも想像力に強く働き掛け、両者の間で動いて、 原因といふ言葉で、物の中で活動し、力や性質により姿を現す何だか分からない 魂や霊を指さうとする。それは、人が一番予想してゐない例で一番感じられる。 ここにかなり重い石があり、手を離すと落ちるだらう。それが落ちる、また、 私の手を押してゐる原因は、その重さと言はれるものであり、それはその中に ある。

だが、さうではない。価値が、別の呪物である金の中にはないのと、あるいは 苦さがアロエの中にないのと同様だ。石に重さがあるとは、石と地球との間に、 距離と二つの質量に依存する力が働いてゐるといふことを意味する。かうして、 石ばかりではなく地球も私の手を押してゐる。そして、この重力の力は、石の中にも 地球の中にも隠されてをらず、二つの間にあり、二つが共に持つてゐる。それは 考へられた関係、あるいは先に述べたやうに、形である。

だが、ここで想像力が 我々に、我々の努力と戦ひ、我々の努力ほど気まぐれではないある種の努力を 石の中に発明させるのが分からないだらうか。この偶像崇拝はかなり強い。 想像力がそこから完全に逃れることはない。要は、それに騙されず、この引きつつた 手によつては何も判断しないことだ。

だが、同様に分かるのは、我々がスープを待つ犬に、あるいは酔つたり 怒りに狂つた男が侮辱的な音を出すのに、ある考へを持たさうとするのは、 同じさわぐ心の動きに因るといふことだ。そこで、できるだけデカルトの 強い考へに戻つて、かう宣言しなければならない。この精神は、物を力、 距離その他の関係により自らに示すが、物のどれか一つに隠されてゐることは 決してない、我々の身体そのものの中にもない、なぜなら精神は身体を 他の物に結び付け、他の物の中で身体を見出すからだ、と。

この点にしつかりと 留まれば、物の内側にあつて虜になつてゐる魂を仮定しようとも思はなくなる。 魂はどれでも世界を、多少ともはつきり掴み、多少とも目覚めてゐるのだが、 常に分かつことの出来ない全体であるからだ。私が星について持つ知識は、 私の子供の頃の知覚にある部分を付け加へたのではない。それを明らかに しただけだ。それに何物も付け加へることなく、内側から大きくしたのだ、 とも言へようか。従つて、全ての意識や考へpenséeは一つの宇宙であり、 その中に全ての物はあつて、どんな物の中にもそれがあるわけでもないと 言はなければならない。

かうして、重さのある石に何かをしたいといふ意図を 仮定するどころか、私は、この飛びかからうとして身を屈める動物にも、 それを仮定すべきではない。もしその動物が考へてゐるのなら、宇宙全体と その中の自分を考へるからだ。ライプニッツが単子によりうまく言つたところだ。 ただ、単子が部分や構成要素であるといふ考へからは完全に自由ではなかつたが。 デカルトは、彼ほど意見を気にしなかつたので、より遠くまで見た。かうして、 物の中の原因を扱はうとするときには、よりうまく言へば、客体としての 原因を扱ふには、客体をそれ自身に投げ返して、生きた体を含め、 そこには延長、つまり全く外的な関係だけを見ることにしよう。それが 真の知識の鍵であり、真の自由の鍵でもあるのは、後で見るとほりだ。

その後で、この力強い考へは、全ての男らしく効果を生む物理学の 唯一の源だが、この上に立つて、我々には原因を法則と区別することだけが 必要だ。人はこれを十分にやらない。例へば、雲は、それ自体では雨の 原因ではない。その上に、温度が再び下がり、水滴が大きくなつて、 再蒸発する前に地上に届くことが必要だ。そして、まづい言ひ方だが、 これらの原因が全て集まると、それは雨そのものだ。また、ある一定の 圧力、一定の温度、小さな泡の表面の圧力といふ、水が沸騰する全ての 条件が整へば、それが沸騰そのものだ。そして、沸騰が起こらないうちは、 原因も、充分な原因の総体といふ意味だが、ないのだ。

かうして、このやうな 例では、前後の関係は失はれる。最後の状況で、我々が力を及ぼせるもの、 例へばこの過飽和溶液の中の小さな結晶を、原因と呼ぶことが許されるのは、 日常の言葉の中だけである。溶液も原因であることは明らかだからだ。同様に、 厳密に言へば、ある瞬間の天体の加速が次の瞬間の動きの原因だと言ふべきでは ない。ここでの原因は、各瞬間における他の全ての天体の位置で、全ての 重力運動はその関数である。この例で、原因と結果の関係といふのは、宇宙の ある状態と、その次の状態との関係、あるいは、閉ざされた系がある限りに おいて、閉ざされた系のある状態と、その次の状態との関係といふ意味しか なくなることが分かる。原因の現実の連鎖は、方向付けされた、つまり向きを 持つた変化の法則による場合にのみ、考へることができる。数の列では、最初の ものにより後のものが作られるので、その逆ではないのと同様である。

ところで、 かうした法則は、物理学者に後れて明らかになつたもので、それに拠れば、バネ、 火薬、多少とも活性な化学物質の閉ざされた系が、それ自体で力学的な平衡状態へと 向かつて、温度上昇を伴ひ変化するといふ法則だ。かうして、築かれた壁、 装填された大砲、引かれた弓、石炭の山、石油の槽、火薬庫、生きた体は、厳密な 意味で原因となるだらう。だが、この言葉の意味はいつでも少し広がつて、 操作できる状況、ある事実の明らかに説明された機械的な条件まで含む。 この意味で人は、例へば、天体の動きの原因は重力の法則だ、といふ。それで 問題はない。それによつて神秘的な原因へと引き戻されることはなく、その逆だからだ。


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