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第5章 建築について

注釈へ

誰でも心地が悪く殆ど立つてゐるやうな椅子をよく知つてゐる。他の、座ると怠け者になるものや、休息や仕事のための椅子も。我々の習慣は、我々自身よりも物 chose に依存してゐる。腕の位置を決めるのは道具の柄なのだから。考へがいつでも物 objet によつて整へられることも計算に入れないといけない。数学者は等式なしでは何もできない程だ。そして、物 objet が我々に我々の考へを示唆すると言ふのでは足りない。我々の物 objet が我々の考へなのだから。しかし、なかでも人の手に成る物 objet は、秩序、対称性、多様な類似、繰り返しにより、我々の考へをしばしば混沌から引き出す。かうして考へは、認め、数へるといふ、その本来の機能に連れ戻される。芸術家は別の自然を描いて見せる。そこでは人間の力がはつきりと形になつてゐる。

そこで、私は、聖堂が我々に神 Dieu について語らうとしてゐるとは言ふまい。私は、むしろ、そこに異教の神々に抗するための努力を見る。かうした神々は森にいつでもゐるが、幾何学により追ひ払はれる。従つて、聖なる場所での動きは、神 le dieu を探すためであり、恐れるためではない。しかし、夢想はいつでも人間の地上へと、人間の秩序へと、結局は連れ戻される。神 Dieu は人 Homme となつて現れたと、はつきり示されてゐるのだ。絵画は、精神を同じ道に連れ戻す。特に、聖母の絵姿は、外部の神がなくても、人間の希望を形にするのに適してゐる。その効果は、この整へられた知恵と外にある怪物との対照により、更に大きくなる。その結果、この場所に入つて安心と解放を感じないことはあり得ない。しかし、大いなる礼儀正しさは、同時に、強ひられたものでもある。特に、声や全ての動きの音が、反響により伝へられ、円天井から石の床へと跳ね返つて、視線と同時に、自然な恥づかしさをさらに増すことに注目すべきだ。そこでは、どのやうなことでも、即興ではできない。

ミサは、当初、記念の宴であつたことが知られてゐる。また、語りや唱へに決まりを設け、不意に来る狂者や、人が集まつた時にはいつでもやつてくる危険な高ぶりに対抗する必要があつたことも見て取れる。私は、かうした取り決めに、人が言ふやうな胡麻化しがあるとは思はない。ただ、式典についての心配りがあるだけで、腕力が働いてゐないので、それが余計に必要だつたのだ。かうして、少しづつ、吟唱された一編から、純粋な礼儀正しさによる身振りが出て来た。そこに、富には眼もくれない教会の質素さがある。富は力や雄弁と同じ世界のものなのだから。しかし、さわぐ心に対しては、静寂と祈りによる説得しかない。そして教会の歌は、さわぐ心には静けさなのだ。従つて、教会の舞台は、節度と配慮だけを表はさうとする。とても賢明だ。考へる動物は、非常に狡猾で、知恵の厳しい教への中にも、何かさわぐ心の喜びを見つけるのだから。この意味で、説教は、すでに俗なものである。建物の方がうまく語る。建物には、騒ぎを起こすまいと注意してゐる信者達や、ゆつくりとした礼儀正しい行ひ、居並ぶ随員、高位の聖職者達、そして動作を整へる衣装も、含めよう。

私は、幼い頃、若い僧の説教の後で、悪魔や死をとても恐れてゐたのを思ひ出す。かうして私は、一つの不幸から別の不幸へと落ちてゐたのだ。そして、ある種の本能的な慎みによつて、私はそれら全てを棄てた。それにしても、この説教師は自分の仕事を心得てゐなかつた。人の集まりを、死の光景により絶望へと投げ落とすことほど、簡単なことはない。それは全ての悪魔を呼び起こすことだ。しかし弔ひの儀式は、そこへは向かはない。全く逆に、そこでは悲しみが衣装を纏ひ、しつけられてゐる。別れは、しかるべき形で、他の者達により為される。悲しげな歌が苦しみを増すと言ひたがる人達は、もしこの群衆が自然な情動に身を任せたら、死者達に続いたであらう叫びや痙攣の列をよく考へてみるべきだ。また、訓練をしてゐない説教者が、さうした状況で正しい調子をみつけるための苦労を考へるべきだ。訓練された説教者は歌ふ調子で決り文句を言ふ。しかし、聖歌隊の方が、上手に語る。


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