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第6章 音楽について

注釈へ

今度は音楽について述べねばならない。全ての儀式の中に音楽があるといふことに加へて、それ自体が儀式であり礼儀であると思はれるのだから。さて、音楽はどこからでも起こる。この大河は千の源を持つ。それがどこから来るかは探さずに、少なくともそれが何かを言はう。人々が一緒に、ある動きを上手にやる、例へば一緒に歩く、くさびを打つ、あるいは綱を引くのは、何かの合図がなくてはできない。樵夫きこりの自然な「えい」で、それが思ひ描けるだらう。この合図には二つの音が必要で、一方が他方を予告する。また、力みと休みに応じたリズムも要る。かうして、時間がリズムにより分けられ数へられる。

踊りは、音楽の一部を成すリズムのある音を伴つて、ここから来る。また、他の人達とともに動く喜びや、リズムがそこで終はりまた始まる二、三、四、六といつた数に気付く喜びも、ここから来る。訓練した才人は、この練習ではるか遠くまで行くことができ、その合図がほとんど見分けられない場合でも、数の集まりを聞き分ける。これは音楽の一部に過ぎないが、大切なものだ。そして、静けさを測り、丁度良い時に合図を見つけることができない人は、音楽の心を持たぬ不幸な人だと思ひたまへ。音楽の技の一つは、音を編み合はせ、リズムに反して続いたり切れたりすると見せながら、実際には少しの間心配させることで一層それを際だたせるといふものだ。その効果は、いつでも、待つことを許さず、心をこの計算に連れ戻すことだ。音楽は待たないのだから。

音楽の本体は、太鼓やカスタネットの音にまで切りつめることができる。しかし人間の声が自然にこれに加はる。さて、声にはそれだけで心を動かす力があり、強すぎる。儀式の声が常に整へられうたふ調子であるのも分かる。音楽がどのやうに詩に係はるかが見える。違ひは、音楽では情動が中身を持たず、自由に夢想できることだ。しかし、声がどのやうに整へられるかを理解せねばならない。ここで源が混じり合ふ。短い一節に耳を傾けるだけで、ある種の歌が聞こえ、この歌には規則がある。当然、鋭い声は激しい情動を意味し、重々しい声は逆にある種の落ち着きと自制を表す。従つて、情動が静まると、重い調子に戻るのは自然なことで、最後は自然な調子で終はる。強さも同じ規則に従ふ。しかし鋭さへと増す強さは、むしろさわぐ心を、その逆は、意志や忠告を表す。私は、また、声を出す筋肉の仕事には補償の規則があり、休んだ筋肉は次に活動し、その後、全てが休むと考へる。そこで、音だけによつて、始まり方で予想できる文が完成することになる。この主題は音楽家達により様々に展開された。人間の耳がそれを要求するのだ。特に、音の戯れが、声の動きとは殆ど似てゐなくなり、人間的な形を失ふ恐れがある場合には。

叫びは、自然に従つて、強さや高さが増し、減る。芸術の一番簡単な効果は、逆に、それを一定に保ち、変化させずに終はらせることで、これは簡単ではない。しかし、その効果は、最初の警戒がすぐに静まり、あとに続くものへの注意だけが残ることだ。そして、続けることが出来るのはあまり疲れない大声なので、その音は、それ自体が、注意力で保たれた落ち着いた心の動きを表現する。そこに混じる不純物は、いつも小さな変化である。従つて、保たれた変はらない声とは、当然、純粋な音だ。そして、それは一番疲れない声なので、大勢に一番よく聞こえる声である。純粋な音は、かうして音楽の要素であり、さわぐ心に平和が美しいやうに、美しい。音に残る小さな変化や、芸がそこに新たに、しかし節度を持ち常に整へながら導入する変化により、心はいつでもさわいでゐるのだ。以上のことから、感じ取れないほど徐々に変化する一節に、はつきりとした変はらない音を置き換へることによつて、歌がいかに声を模してゐるかが見て取れる。

さて、歌は自分にも聞こえるので、また、最小の力で最も強い音を出すのが楽しいので、また、一緒に歌ふ声も自分たちに聞こえ、この規律正しい力が楽しいので、誰もが強め合ふ音を探す。空気振動の周波数の間のある関係が、言はば、ほかの関係よりも効率が良いことは、よく知られてゐる。これについてはヘルムホルツを読みたまへ。これは物理学者の問題だから。

公的な、私的な、さらには一人で行ふ儀式に係はることを、特に記憶に留めよう。確かに音楽は心を動かすことを目指してをり、誰でもそれを知つてゐる。しかし、そこには常に知的な好奇心が混じつてゐて、注意を逸らす。その程度は、音楽家が、意外性、真似、変奏、そして我々に気付かせるもの、恍惚となるまで音楽のとりこにさせるもの全てを、どれだけ好むかに依る。しかし、この喜びは、絶え間なく呼び起こしては癒すことで、整へられた動きと儀式の恩恵を刻々我々に感じさせるのに比べれば、大したものではない。魔術師は、すぐに鎮めるために情動を呼び起こすかと見える。音楽家は、マッサージ師のやうに、癒すためだけに痛みを感じさせる。そして、その手つきを変へながら、相反する情動の体系全体を巡り、どの情動も律することができるのを我々に示して、先の見通しでも我々を慰める。

だが、即興については何と言はうか。そこでは音楽家が、自分自身のために、眼を回すことなく感動するといふ芸をなし遂げるのだ。ここでは均衡はさほど厳密ではなく、時に依存する。自分の作品を長続きさせる音楽家の仕事は、緩と急、英雄的なもの、真面目なものと軽いものの組み合はせを、いつもの状態に引き戻すことだ。彼が、そこでは音楽が一つの手段に過ぎなくなる瞑想によつて、細部にわたるまで成功を収めれば、無数の人々が彼の音楽の中で歌ひ、彼は作品自体の美しさに、それを既に聞いた人達の感動に負けまいとする心を付け加へるのだ。これにより、全ての作品で、栄光は完全なものになる。


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